元日本代表でJ2横浜FC会長の奥寺康彦が、日本人として初めて「ブンデスリーガ・レジェンド」に選ばれた。リーグの発展に貢献したことが評価されたのだ。
アジアからは他に元韓国代表の車範根と元中国代表の邵佳一も選出された。
会見の席で奥寺は「お互い協力し合って、もっとアジアでのブンデスリーガの認知度を高めていきたい」と抱負を口にした。
「当時、ヨーロッパで知られている日本人のスポーツ選手といえば、僕と奥寺さんくらいだったかなァ」
振り返って、そう語ったのは元競輪選手の中野浩一だ。中野は、日本では“競輪界のスーパースター”という位置付けだが、自転車レースの盛んなヨーロッパでは、世界選手権個人スプリント10連覇のレジェンドとして尊敬を集めている。
JSL(日本サッカーリーグ)の古河電工に所属していた奥寺がブンデスリーガのケルンに移籍したのは1977年のことだ。ちょうどこの年、中野の10連覇もスタートしている。
ドイツ行きのきっかけはケルン監督のヘネス・バイスバイラーから現地で指導を受けたこと。ギュンター・ネッツァー、ベルティ・フォクツらドイツを代表する選手を育てた名将からの誘いに、奥寺は「体が震えた」という。
しかし、即答は避けた。25歳と若くはなく、結婚もしていた。ドイツ語はまるでしゃべれない。
それでも挑戦の道を選んだのは「行ってこい。こんなチャンスはない」と多くの協会関係者が後押ししてくれたからだ。
「オリンピックにも出られない。ワールドカップにも出られない。低迷していた日本サッカーを何とかして欲しいという思いが伝わってきた」
ケルンで4シーズンプレーした奥寺はヘルタ・ベルリン、ブレーメンと渡り歩き、計9シーズンで234試合、26ゴールを記録した。
ケルンには奥寺の名前を冠したサポーターズクラブもある。
「77~78年のケルンは最高に強かった。そのとき、活躍した選手のひとりがオクデラだった」
直々にサポーターから、そう言われたという。
サッカー選手にとって、今でこそヨーロッパでのプレーは当たり前の目標だが、パイオニアにはパイオニアなりの苦労もあったようだ。
以前、奥寺はこう語っていた。
「ひどいこともいろいろ言われたよ。“東洋のサル”とか“黄色い××”とか。頭にきたなァ(笑)」
奥寺が切り開いたけもの道は、今やアスファルトを敷き詰めた舗道になった。今季は香川真司(ドルトムント)、長谷部誠(フランクフルト)、原口元気(ヘルタ・ベルリン)、浅野拓磨(シュツットガルト)、大迫勇也(ケルン)、酒井高徳(ハンブルガーSV)、武藤嘉紀(マインツ05)ら15人(2部以上)の日本人選手がドイツでプレーしている。
――成功の理由は?
「日本人の真面目さや献身性がドイツの国民性、気質にあっていることが大きい」
レジェンドは後輩たちの活躍に目を細めていた。
<この原稿は『サンデー毎日』2017年11月26日号に掲載されたものです>
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