1988年のパルパル(88)五輪が、これまで取材したどの五輪よりも印象に残っているのは、私自身、初めての五輪取材だったという理由だけではない。男子100メートルで驚異の世界記録を出したベン・ジョンソン(カナダ)をはじめ、禁止薬物使用による失格者が続出したからである。


 80年モスクワ五輪はソ連のアフガニスタン侵攻を理由に、米国を始めとする多くの西側諸国がボイコットした。その報復とばかりに84年ロサンゼルス五輪は米国のグレナダ侵攻を理由にソ連や東ドイツなどの東側諸国がボイコットした。そうした背景もあって、パルパル五輪は東西両陣営の威信をかけた激突となった。ドーピングの魔手が忍び寄る下地は十分過ぎるほど整っていた。


 立ち寄った仁川で見た不思議な光景は今も忘れられない。港に浮かぶ客船はミハイル・ショーロホフ号といった。1965年にノーベル文学賞を受賞したロシア人作家の名前に由来する。なおショーロホフには「彼ら祖国のために戦えり」という未完の長編小説もある。


 当初、この船は”慰安船”と見られていた。ソ連の選手がくつろいだり、郷土料理を食べたりするために設けられた船上施設だと。


 ところが、実態は違っていた。船内で科学者たちの手で禁止薬物が処方され、陽性反応が出るかどうかのドーピングテストまで行なわれていたというのだ。まさに「祖国のために戦えり」のための“戦艦”だったのだ。


 工作活動の首尾は上々だった。ソ連は金55、銀31、銅46、計132個のメダルを獲得して米国(金36、銀31、銅27、計94個)に圧勝した。さらに驚いたのは人口1700万人足らず(当時)の東ドイツが米国を上回る102個のメダルを獲得し、2位につけたことである。それは禁止薬物の存在を強く疑わせるものだった。


 ソウル五輪から26年、ソチ五輪でのロシアの国家ぐるみのドーピングは、仁川沖に浮かんだミハイル・ショーロホフ号が今もかたちを変えて存在していることを浮き彫りにした。


 そこで問いたい。こんな国にサッカーW杯を開催する資格はあるのか、と。ドーピングの黒幕と目されるビタリー・ムトコ副首相がロシア大会の組織委員長とは冗談にもほどがある。私の目には窃盗国のボスが金庫番をしているような図に映る。

 

 <この原稿は17年12月13日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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