伊藤数子: 2020年に開催される東京パラリンピックはどのように迎えたいですか?

大日方邦子: 大会を支える側として迎えたいと思っています。2020年東京大会は招致活動に関わることができました。そこで"なぜ2020年東京で開催するのか"という思いも知ることができた。今も2020年東京オリンピック・パラリンピック大会組織員会の、有識者会議メンバーとして開催準備にも関わらせてもらっています。

 

二宮清純: 自国開催のパラリンピックに関わることは、誰もが経験できるものではありません。

大日方: はい。今の選手たちの中には「2020年東京パラリンピックを経験したい」との理由で現役を続ける人もいる。冬の競技の選手の中にも「2026年に札幌パラリンピックが開催されるならこの先も頑張りたい」と言う人がいます。それだけ自分の国で開催されるオリンピック・パラリンピックは特別なものなんです。私の場合タイミングが味方してくれて、1998年の長野大会には選手として出場、そして2020年の東京大会では支える側として自国開催のパラリンピックを経験できる。これはタイミングが良くなければあり得ないことです。

 

二宮: 長野大会は約20年前に開催されました。当時、20代だった方は東京パラリンピック開催時には40代になっているわけですから、組織の先頭に立って動き回るにはちょうどいい年齢かもしれませんね。

大日方: 私も長野パラリンピックを20代で経験しましたから、そういった点もタイミングが良かったと思います。

 

二宮: 日本が長野パラリンピックを開催したことで遺したレガシーはなんでしょう?

大日方: それはとてもポジティブなものが多いと思います。例えば、JPC(日本パラリンピック委員会)ができたのは、長野大会での選手の活躍がきっかけになったんです。

 

伊藤: 大日方さんが長野で金メダルを獲った時に日本で初めてスポーツ紙の1面にパラリンピックの選手が載りました。

大日方: 懐かしいですね。そういったメディアでの扱われ方を見ても、注目度が上がったことを実感します。大きなレガシーの一つです。昨年のリオデジャネイロパラリンピックでも1面をあけて待ってくれていたと聞きました。

 

二宮: 大日方さん自身に遺っているパラリンピックのレガシーとは?

大日方: バンクーバー大会での出来事が印象に残っています。ダウンヒルのスケジュールが悪天候で、いつ再開するかわからなくなった時に、カードゲームをして待つヨーロッパ選手を見て感心しました。スキーではレースが自然に左右されることが多々あります。そのため、いかなる環境にも対応できる能力が必要です。常に自分の力を発揮できる人は自然とうまく調和している人です。競技においても人生においても、予定通りいかないことは多い。悪条件になった時に動揺するのではなく、“なるようにしかならない”と思える人生観を、レースから学びました。

 

 大切なのは2020 年以降

 

伊藤: ところで大日方さんは2007年に株式会社電通パブリックリレーションズに入社しました。当時は現役選手でしたが、競技の第一線から離れた現在はどのような仕事を?

大日方: 2013年にオリンピック・パラリンピックの東京開催が決まり、弊社も14年からオリンピック・パラリンピック部を立ち上げて、私もその一員です。かつてはパラリンピックに対して会社が振り向きにくいところがありました。でも今は市場規模として大きくなる可能性を見据えて、パラリンピックやパラスポーツに力を入れています。

 

二宮: 超高齢社会とパラリンピックには親和性がありますので、そういう市場も広がってくるでしょうね。

大日方: おっしゃるようにパラリンピックと超高齢社会の親和性は高いと思います。超高齢社会で直面する社会課題を、成熟した国としてどうクリアするかも2020年東京パラリンピックの重要なテーマの一つとして捉えています。

 

二宮: そのためには大会の成功も重要なミッションとなりますね。

大日方: そうですね。やはり開催して良かった、そう思える大会にしないといけません。オリンピック・パラリンピック開催に当たっては様々な課題に直面することもあるでしょう。それでも日本の人たちみんなに「2020年はとても意義のある素晴らしい大会だった」と言ってもらえるようなものにしたいです。国民全員が前向きな気持ちで、2020年以降を迎えられる。そのきっかけづくりとなる大会を目指します。

 

二宮: まずは3カ月後に平昌パラリンピックがあります。日本選手団の活躍を期待しています。

大日方: はい。平昌で日本が勢い付くような結果を残して、東京へとバトンを渡したいです。

 

(おわり)

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大日方邦子(おびなた・くにこ)プロフィール>

1972年4月16日、東京都生まれ。3歳の時に交通事故で右足を切断、左足にも後遺症が残る。高校2年の時にチェアスキーと出合い、1994年リレハンメルパラリンピックに出場。1998年の長野大会では滑降で日本人初の金メダルに輝いた。2010年のバンクーバーまで5大会連続で出場し、計10個のメダルを獲得した。1996年にNHKに入局。2007年6月からは電通PRに勤務。2010年9月に代表チームからの引退を表明後は、後進の指導に当たる。日本パラリンピアンズ協会の副会長、日本障害者スキー連盟常任理事(アルペンGM)などを務め、競技普及に携わっている。2013年には2020年東京オリンピック・パラリンピックの招致活動にも関わった。今年6月に平昌パラリンピック日本選手団団長、11月には日本障がい者スポーツ協会理事に就任した。


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