高校2年、稲川朝弘は愛知高校から日本大学藤沢高校に転校している。なぜこの学校を選んだのかと訊ねると、「テストなしで入れてくれるというので入った」と笑った。そしてサッカー部も強豪校のひしめく神奈川県の中では凡庸だった。

「結果も残していないから、大学から誘われることもなかった」

 

 1年間の浪人生活を送り、82年4月、日本大学に入学した。浪人したことで体育会系のサッカー部へ入ることは諦めた。ただ、サッカーと離れるつもりはなかった。この時点ではJリーグは形にもなっていない。大学で教員の資格を取って、指導者になるつもりだった。

 

 大学入学直後、人からの紹介で相模原市立大沼小学校の少年サッカーチームで教えている。

「近所だったから適当に教えに行っていただけなんですよ」

 

 軽い気持ちで教えたそのクラブが神奈川県大会で決勝まで進出した。

「神奈川はチーム数が多くて、何回勝ったのかは分からないぐらい。それまでは少年サッカーのゴールだったのに、決勝だけ突然、成人用のゴールになった。相手に170センチぐらいのセンターフォワードがいて、彼に2点取られて負けてしまった。それがすごく納得できなかったんだよね」

 

 指導者としての才を認められた稲川は、相模原市の小学生選抜チームの監督を任されることになった。

 

「また同時に中学生のサッカークラブを作ったんです。その当時、メトロポリタンリーグというのがあって、読売(クラブ)や三菱養和と試合をしていました」

 

 最も印象に残っているのは読売である――。

「菊原(志郎)とか北澤(豪)がいた。志郎が14才で中二、キーちゃん(北澤)が1つ上だったかな。志郎たちは良かったけど、読売の奴らっていうのは本当にぶん殴ってやろうと思うぐらい激しかった。うちの選手が2人骨折させられたんです。正面から削ってきて、脛を折られた。ただ、レベルは高かった。球際の強さは、ファウルすることも含めて上手かった。(読売の)大人たちとやることで学ぶものは大きいのだなと思いました。養和には勝つことはできたけど、読売にはどうしても勝てなかった。あのときの読売のジュニアユースは一番強かったと思いますよ」

 

 “天才”として早くから将来を嘱望された菊原と稲川の人生がのちに交差することは後述する――。

 

 大学3年生になる頃、母校である日大藤沢のコーチをやってみないかという話が来た。

 

 この頃、稲川は自分なりのチームビルディング術を見つけつつあった。

「まずは(足下の)技術は大事。ただ、その技術の使い方を間違えていないかどうか。そして、そのポジションでいいかどうか。“お前のポジションって誰が決めたの”というところから始めた」

 

 これまでのポジションを白紙に戻したのだ。 

「ぼくは(元オランダ代表のヨハン・)クライフ信者なんですけど、彼の言葉に“一番上手い選手がセンターフォワード”というのがある。明らかに上手い選手は前に置く」

 

 稲川流ボランチ論

 

 そして次にボランチを決めた――。

 

 この当時はボランチというポルトガル語は使われておらず、ディフェンシブ・ミッドフィルダーと呼ばれていた。

「ボランチの選手がどれだけ試合の流れを見ることができるかでサッカーが変わる」

 

 まずはグラウンドの半面を使って、ミニゲームを行った。ゴールは2つずつ、ボールを3つ放り込んだ。稲川は何も指示を出さない。

「そうして見てると、ボールを(ゴールできる場所に)配球できるのがいるんです。その選手に例えばピンクのビブスを着せる。それでまたゲームを続けて、いいパスを出したら違う色のビブスを渡す」

 

 勘が良く、視野の広い選手は稲川が何を求めているのか、推し量ることができる。数日間、このミニゲームをやると誰をボランチとして起用すべきか見えてくるという。

「4-3-3が一般的だったんですけれど、ぼくは4-4-2を採用した。当時の選手に聞いたら新しかったみたいですね。なぜ中盤を4枚にしたかというと、ボランチを2枚、ドイス・ボランチにしたかったから。もちろん、ブラジルのようにプリメイラ(第一)とかセグンダ(第二)という使い分けはしていなかったんですけれど」

 

 プリメイラは主にボールの奪取に、セグンダは攻撃の拠点となることを重視する。こうしたブラジル的なボランチが入ってくるのはかなり後になってからだ。

 

 その他、選手のプレースタイルによって“制限”を加えることもあった。

「いい選手だったんですけれど、ドリブルばかりで周りが見えないのがいたんです。その選手に対しては“お前だけ1ヶ月、ワンタッチ(2タッチ以上ボールを持つな)”って」

 

 84年夏、日大藤沢は神奈川県予選を勝ち抜き、秋田で行われたインターハイ出場を勝ち取る。

 

 このとき、稲川はその後の人生に繋がる重要な教訓を得ることになった。

「あのときの日大藤沢というのは、とんでもない不良学校だったんですよ。学校の中でシンナーを吸っているのもいたし、暴走族になっている奴もいた。ただ、そういう不良ぐらいの方が、サッカーをやったときにいろいろなアイディアを持っている。世の中に不条理さ、ストレスを抱えている奴の方が、成り上がろうという強さがある。そういう奴が爆発したときにいい選手となる」

 

 優等生よりも、放っておくと落っこちてしまうのではないかという危うい選手の方が面白い。稲川はそう確信したのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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