ここまで来たか、というのが正直な感想。日本中を騒然とさせたカヌー界のドーピングにまつわる“事件”である。

 

 なぜ日本にはドーピングの違反を犯す選手が少なかったのか。日本における「スポーツ」が「体育」とほぼ同義語であったことにも一因があるとわたしは思う。体育とは、文字通り身体を育むためのもの。なぜ学校で身体を育まなければならないかといえば、富国強兵の思想が根底にあったから。身体を鍛えなければ「スポーツ」ではないとの前提に立つからこそ、いまだにダーツをスポーツと認めるのに抵抗のある人は少なくないし、以前はゴルフにもそうした目が向けられていた。

 

 ドーピング。身体を鍛えるのとは正反対の行為。よって、欧米人に比べるとタブー意識が強くなったのかな、と。麻雀におけるイカサマを芸術の域まで高めた日本人も、「体育」の呪縛からは抜けられなかったのかな、と。となると、少しずつ「体育」から「SPORTS」へと変わりつつある日本でも、今後はこの手の問題が増加していくんだろうな、とも。

 

 最近あちこちで質問されるのが、平昌五輪の開会式に安倍首相が出席するべきかどうか、という問題。わたしの答えは「どちらでも」。

 

 スポーツと政治は切り離すべき? ごもっとも。モスクワ五輪の出場ボイコット。いろんな事情はあったのだろうが、スポーツの世界で生きる人間からすると、最低最悪の決定である。

 

 だが、開会式とはそもそもスポーツなのだろうか。そして、開会式に世界のVIPを呼ぶ側は、何のために呼ぼうとしているのか。

 

 スポーツのため、ではなかろう。政治のため、国内世論のため、国際社会へのアピールのため、である。向こうがスポーツを政治利用しようとしている以上、こちら側も政治のしきたりに則って、粛々と対応すればいい。五輪に行くか行かないか、ではなく、2月の韓国に行くか行かないか、だけのこと。日本政府の決定が選手たちに何らかの影響を及ぼさない限り、わたしにとっては「どちらでも」。

 

 最後にサッカーの話題を一つ。斎藤学のフロンターレ移籍。これは本当に驚いた。ずいぶんと思い切ったことをしたな、とも思う。マリノスのファンからすれば大いに複雑……どころか腸が煮えくり返る思いの方もいることだろう。

 

 下部組織からマリノスで育った斎藤は、当然、そのことを知っている。ケガをした直後、ファンが感動的な横断幕を掲げてくれたことも覚えている。その上でなお移籍を決断したというのだから、これはもう、凄まじいまでの覚悟があるということなのだろう。

 

 ここのところ、代表に名を連ねるような大物選手は、海外へ移籍するばかりだった。今回の移籍によって、マリノスとフロンターレの間にはある種の物語が生まれた。これは、Jリーグに久しくなかった経済効果の萌芽でもある。

 

<この原稿は18年1月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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