スポーツ選手にとって最大の「運命的資源」はライバルの存在ではないかと時々、考えることがある。こればかりは、どれだけ努力しても手に入れることができない。


 プロ野球の長嶋茂雄には村山実がいた。柔道の山下泰裕には斎藤仁がいた。そして大相撲の大鵬には柏戸がいた。天の差配という以外にない。「同等の力量を持った力士がしのぎを削りあってこそ、2人とも強くなれるんです。私と柏戸がまさにそうでした」。生前、柏戸について聞くと、開口一番、大鵬はそう言った。続けて、こう口にした。「柏戸がいて大鵬がいた。大鵬がいて柏戸がいた。そして時代が生まれたんです」


 いわゆる「柏鵬時代」は約10年に及んだ。対戦成績は大鵬の21勝16敗。はじめの頃こそ2年デビューが早かった柏戸の方が分がよかったが、ともに横綱になって以降は18勝9敗と大鵬が圧倒している。幕内最高優勝は大鵬32回に対し柏戸5回。柏戸は後年、「(柏鵬時代とは言っても)僕は(大鵬に)オンブに抱っこだった」と語っている。


 私は「巨人・大鵬・卵焼き」の世代である。ご多分に漏れず大鵬ファンだった。その頃、柏戸は大鵬に負けてばかりいた。大鵬が勝って拍手をすると、周囲のおとなが嘆くのだ。「柏戸よ、もう前には出れんのか」と。そして吐き捨てた。「子どもは大鵬を応援していればいい」。その言い草にしびれたものだ。


 にもかかわらず、なぜ柏戸は大鵬と並び称され、二分する人気を誇ったのか。「剛と柔」「攻めと守り」「直線と曲線」――すべてにおいて2人の相撲は対照的だったからである。柏戸は語っている。「70ある決まり手のうち、押しと寄りの2つあればいい。あとはオレには必要ない」。型にはまれば、これほど強い力士はいなかった。まさに猛牛のごとき突進力だった。


 返す刀で、若き日の大鵬は、こう批判された。「大鵬の相撲には型がない」。本人はどんな思いだったのか。これも生前、単刀直入に訊ねてみた。「師匠(二所ノ関親方/元大関・佐賀ノ花)に言われたものです。“山の水が高いところから低いところに自然に流れるように、相手に逆らわないで、どんな相撲でもとらなきゃダメだ”と。その型でしかとれないというのは、本当に強い力士ではない」。“昭和の大横綱”の矜持が垣間見えた。

 

 大鵬の孫と朝青龍のおいっ子が前相撲をわかせている。ライバル物語の序章であって欲しい。

 

<この原稿は18年1月24日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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