人生における選択は、本人が必死で考えたのだと思い込んでいても、後から時代の流れに何らかの形で背中を押されていたと気がつくものだ。

 

 1984年夏、大学3年生だった稲川朝弘はコーチとして母校である日大藤沢をインターハイに出場させている。自分はコーチとして才能があるのではないかという手応えがあった。

 

 この時点で日本にはプロサッカーリーグは存在しておらず、サッカーのコーチを育成する組織もなかった。国外に目を向けて、西ドイツにあるケルン体育大学に留学できないかと考えたこともあった。ただし、学費、滞在費はどうするのか。そうした費用を親に頼るのは現実的ではなかった。大学に入学したときは、教員免許をとってサッカー部の監督になるつもりだった。ところがサッカーにかまけて、授業はさぼりがちで教職課程は早くに放棄していた。それでもサッカーに関わっていくにはどうしたらいいか。稲川は頭を悩ませていた。

 

 そんなとき、目の前に空からするすると一本の糸が下りて来た――。

 

 まずは、釜本邦茂の引退である。

 

 84年8月25日、国立競技場で釜本邦茂の引退試合として、彼の所属したヤンマーディーゼル対JSL(日本サッカーリーグ)選抜試合が行われた。この試合には元西ドイツ代表のヴォルフガング・オヴェラート、元ブラジル代表のペレも参加している。

 

 68年のメキシコオリンピックで日本代表は3位、釜本は得点王になっている。78年からはヤンマーの監督を兼任。日本サッカー最大、そして唯一のスターだった。

 

 85年から、新日軽株式会社が釜本の名前を前面に押し出したサッカースクールを始めている。大学4年生となった稲川はアシスタントコーチとして職を得ることになった。

 

 稲川にとって釜本は憧れの選手だった。

「小学生のときに、将来の夢は釜本さんとサッカーすることだって言っていた記憶があります。もちろん、そのときはヤンマーのサッカー部に入ってチームメイトになるという意味でした」

 

 違った形で夢が叶うことになったと稲川は笑う。

 

 動き始めた歯車

 

 稲川は練習メニューを組み立て、釜本と共に子どもたちを教えて回ることになった。大学卒業後は、このサッカースクールを運営していた中央宣興という広告代理店に入社。サッカースクールのスポンサーである新日軽の担当となった。

 

「平日は営業マンとして、新日軽の方に毎日のように怒られていました。そして土日になるとジャージを着て、サッカースクールの設営から初める。アシスタントコーチとして働いて、片付けて帰って行く」

 

 日本のサッカーは長らく低迷していた。トップリーグであるJSLの試合に観客は集まらず、日本代表はワールドカップには一度も出場したことがなく、オリンピックもメキシコ大会以来出場を逃し続けていた。

 

 ただ、サッカーの魅力を信じる人間は少なくなかった。彼らは会社、業界の垣根を越えて、手を結んでいた。

 

「広告業界や出版社のチームと試合をしていると、自然にサッカー好きが集まってくる。電通の広瀬一郎さん、博報堂の岡本純さん。そういう方にいろいろなことを教わった」

 

 広瀬は東京大学サッカー部、岡本は慶応大学ソッカー部出身である。広瀬はトヨタカップを担当しており、後に2002年ワールドカップ招致に関わることになる。岡本はJリーグ設立の際、博報堂の中心人物となった。

 

 稲川は当時を振り返る。

「みんな、日本のサッカーをなんとかしなきゃいけない、発展させなきゃいけないという思いが強かった。ぼくももちろん普段は本業をやっていたんですけど、それ以外の時間は自分でサッカーのイベントをできないかと動いていました。クライアントの方に“サッカーは世界で一番人気のあるスポーツなんです”“サッカーはグローバルスポーツなんです”って説得していました。あるとき、先方から“君の話を聞いていると、新興宗教の勧誘みたいだね”と呆れられたことがありました」

 

 稲川のような“サッカー伝道師”は日本各地にいた。彼らの“布教”により、少しずつではあるが歯車が動き始めていた。

 

 稲川が日本大学を卒業する1カ月前、86年2月、三浦知良がブラジルのサントスFCとプロ契約を結んでいる。三浦の父、納谷宣雄は堀田哲爾と共に静岡のサッカー普及に尽力していた。三浦はそうした土壌から飛び出してきた選手だった。

 

 JSPの立ち上げ

 

 そして4月、JSLで「スペシャルライセンスプレーヤー制度」が始まっている。これはサッカーだけで生活する“プロ選手”を容認するものだった。この制度を利用して西ドイツのブンデスリーガから帰国していた奥寺康彦、日産自動車の木村和司がプロ選手として登録している。

 

 88年3月、JSL内に「第一次活性化委員会」が設置された。これは日本及び各国リーグの現状分析から始め、サッカーの水準をいかに上げるかを論じる会議だった。プロ化への胎動がはじまったのだ。

 

 88年、稲川は中央宣興を退社して、『ジャパン・スポーツ・プロモーション』(JSP)の立ち上げに参加することにした。

「最初の事務所は原宿の(サッカーショップ)KAMOの2階にあった。イベント企画と選手エージェントを二本柱にして、旅行代理店業務をやるという感じだったのかな。エージェント業ではすでに(JFLの)川崎製鉄FCにエルシオというブラジル人のフィジカルコーチを入れていましたね」

 

 この年はソウルオリンピックが開かれることになっていた。ただし、日本代表はアジア予選で中国に敗れ(1対0、0対2)、出場権を逃していた。オリンピック開催前の9月8日『中南米フェスティバル国際親善サッカー』と銘打ち、アルゼンチン五輪代表を迎えて国立競技場で親善試合を行っている。

 

 アルゼンチンをはじめとしたサッカー伝統国の、最優先大会はワールドカップである。2年後の90年ワールドカップ・イタリア大会に出場するディフェンダーのネストール・ファブリを除けば、目を惹く選手はいない。ちなみに監督は後に、日本のナショナルトレーニングセンター・チーフコーチに就任するカルロス・パチャメが務めている。試合は1対0でアルゼンチン五輪代表が勝利した。

 

 稲川はこの試合の運営に携わることになった。

「日本で試合をしてからソウルに入るという仕組みを作ったんです。JSPでぼくがやった仕事はこの試合ぐらいかな」

 

 彼は1年ほどでJSPから去ることになったのだ。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

◎バックナンバーはこちらから