宇城元選手は2020年東京パラリンピックでパワーリフティング男子80キロ級での出場を目指し、日々トレーニングに励んでいる。パラリンピックは過去2大会に出場。2004年アテネ大会の67.5キロ級で8位(147.5キロ)、2012年ロンドン大会の75キロ級では7位(180キロ)と、いずれも入賞を果たした。一方で北京とリオデジャネイロの2大会は出場を逃している。2大会ぶり3度目のパラリンピックへ。その思いとは――。

 

 きっかけはボディビル雑誌

 

伊藤数子: 今回のゲストはパワーリフティング日本代表として2度のパラリンピックに出場した宇城元選手です。

宇城元: よろしくお願いいたします。

 

二宮清純: パワーリフティングという競技に出合ったきっかけは?

宇城: 初めてパワーリフティングを知ったのは、『ボディビルマガジン』という雑誌です。先輩アスリートの高橋省吾さんの記事が載っていたんです。ちょうど交通事故に遭ったばかりで、落ち込んでいた時に読んだ雑誌でした。高橋さんは今でも尊敬する先輩です。

 

伊藤: 車いすバスケットボールも経験されたと伺いました。

宇城: はい。でもチームプレーが苦手でした(笑)。4年ぐらい続けたのですが、“少し合わないな”と思っていた時に、ちょうど高橋さんに会う機会がありました。それで車いすバスケットボールに見切りをつけて始めたのがパワーリフティングです。

 

二宮: 事故に遭う前からスポーツはされていたのでしょうか?

宇城: 小学校の時は水泳、野球、陸上。いろいろやりましたね。

 

二宮: 車いすバスケットボールで“パラリンピックに出たい”とは思わなかった?

宇城: そうですね。自分がそのレベルまで辿り着きそうもなかったので、考えもしなかったです。一方でパワーリフティングは、元々力には自信がありましたし、メキメキ力がついていったので、数年でパラリンピックを目指すようになっていましたね。やっぱり個人競技の方が合っていたのだと思います。

 

伊藤: 宇城選手がパワーリフティングを始めた時は、まだパラ・パワーリフティングの大会はなかったですね。

宇城: その頃はまだ競技として開拓されていなかった。僕らが健常者の大会にどんどん出場して、障がい者のためのルールを引き出していった時代でした。例えばパワーリフティングでは名前をコールされてから1分以内に試技をスタートしなければいけないのですが、車椅子から台に移動するのに時間がかかるので2分以内に広げてもらいました。

 

二宮: 以前、パラ・パワーリフティングの選手にお伺いしたら、階級によってはパワーリフティングの記録をパラ・パワーリフティングが上回ることがあると?

宇城: 僕が健常者の日本記録を更新したのは一度だけでした。以前、住んでいた愛知県内では無敵に近いぐらい強かった時期もありました。「デンソー刈谷パワークラブ」というチームの合同練習に行っていたので、力もついていった。競技を始めて4年後ぐらいには健常者の大会で優勝できるようになりました。それから健常者に認められるようになった気がしますね。

 

伊藤: パラ・パワーリフティングの大会が始まったのはいつですか?

宇城: 2000年ですね。東京で1年に1回だけ、東京都多摩障害者スポーツセンターで開催されました。ただ競技を始めた当初は、健常者の大会に出ることが多かったですね。

 

“想定以上”の8位入賞

 

伊藤: そこからパラリンピックへの意識が芽生えたのは?

宇城: 初めて出場した国際大会は、ハンガリーで開催されたヨーロッパ選手権でした。そこで一緒になった日本人選手が2000年シドニー大会に出場したんです。そこから"このくらいの記録を持っていれば出場できる"というパラリンピックに出場するための具体的な数値目標ができました。身近にいた人がパラリンピックに出場したことで、少しずつパラ・パワーリフティングにのめり込んでいったんです。

 

二宮: そして初出場は2004年アテネ大会。競技を始めてどのくらいでの出場でしたか?

宇城: 国際パラリンピック委員会から指名があったのが2004年3月で、競技日は9月だったので、始めてから、ちょうど5年半でしたね。

 

二宮: 当時の出場権獲得の条件は?

宇城: アテネ大会では各階級の世界ランキングで、上位14人に入るか、2つの推薦枠で選ばれる必要がありました。当時、僕はトップ14の中に入っていたので、出場権を得ました。それまで日本人は推薦枠でしか出場できなかった。"ランキング入りでの出場は難しい"と言われていた時代でした。

 

二宮: 初めてのパラリンピックはいかがでしたか?

宇城: 結果を残すことはもちろんでしたが、次のパラリンピックまでに“もっともっと強くなってやる”との思いで臨んだ大会でしたね。

 

伊藤: 8位入賞という結果をどう捉えていますか?

宇城: ひとこと、運が良かったです。実力的には及ばなかった。直前の大会で日本記録を7.5キロ更新し160キロの記録をもって臨みました。結果は、1回目の試技だけ成功して、2回目と3回目は失敗に終わり147.5キロで自己記録におよばなかった。パラリンピックで記録を残すことの難しさ、日本代表として受ける期待、重圧を背負う意味を感じた大会になりました。

 

二宮: 3人の審判中2人が成功判定をしなければ、成功試技とは認められないんですよね。

宇城: そうです。ベンチプレス台の上に仰向けに寝て、不安定な足を固定する為にベルトを巻きます。バーベルを掴み、ラック台に重量をセットされたバーベルを持ち上げ、腕をピンと伸ばし、スタートポジションになると審判から「スタート」の合図がかかります。腕をゆっくりと曲げながら胸の位置まで下ろす。この時、胸元でバーベルをピタリと“完全に”静止します。胸元で“完全に”静止させるのが難しい。静止したとき、少しでも動いていれば失敗判定になりますから。静止後は胸と腕の筋肉に集中し、全力で腕を伸ばし、バーベルを持ち上げます。

 

二宮: 完璧じゃなければ成功試技にならない。その難しさも魅力でしょうか?

宇城: ええ。成功試技と判定された時は、日々のトレーニングの積み重ねが報われる瞬間です。その達成感が魅力や面白さだと思います。

 

(後編につづく)

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宇城元(うじろ・はじめ)プロフィール>

1973年1月28日、兵庫県生まれ。大学4年時に交通事故で、脊髄を損傷し、車いす生活となる。26歳で本格的にパワーリフティングに打ち込み、2004年アテネパラリンピック男子67.5キロ級で147.5キロを記録し8位入賞を果たす。2008年北京パラリンピック出場は逃したものの、2012年ロンドンパラリンピック75キロ級では180キロで7位に入った。2014年インチョンアジアパラ競技大会80キロ級で183キロを記録し、5位入賞。リオデジャネイロパラリンピック出場は叶わなかったが、自国開催の東京パラリンピック出場を目指している。80キロ級日本記録保持者(186.5キロ)。順天堂大学スポーツ健康科学部所属。


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