1989年1月、昭和天皇の崩御により、昭和が終わり、平成が始まった。日本サッカー界も新たな時代が動き出した年でもあった。

 

 3月、日本サッカーリーグ(JSL)内の「第二次活性化委員会」が「日本サッカーリーグの活性化案」を提出している。これはプロリーグ設立を目指したものだった。これを受けて日本サッカー協会はプロリーグ検討委員会を立ち上げた。

 

 いずれ、サッカー界で働くために

 

 この頃、稲川朝弘は、ジャパン・スポーツ・プロモーション(JSP)を退社し、制作プロダクションに入った。

 

「企画書を起こして、きちんと営業に行ける人間にならないと駄目だと思ったんです。その会社は広告業務一般の他、音楽事業などもやっていた。いわゆるクリエイティブエージェンシーですね。所属していた作曲家の企画書を書いて、レコード会社へ営業に行ったこともあります」

 

 いずれサッカーで食べていくにしても、自分の腕を磨く必要があった。

 

 プロリーグ検討委員会は、プロリーグ(後のJリーグ)への参加条件を発表、読売クラブなどJSLのクラブが手を挙げた。

 

 読売クラブの親会社、読売新聞は読売ジャイアンツを所有している。彼らは、何が話題になるかをよく理解していた。90年7月、ブラジルのサントスFCに所属していた三浦知良を獲得。三浦の加入は読売クラブ、そして日本のサッカーを大きく後押しすることになる。

 

 この頃、既に2002年のワールドカップ招致も始まっていた。

 

 これもまた活性化委員会で話し合われたことだった。プロリーグを運営するには、スタジアムが必要である。これまでのように陸上競技場を使用するのではなく、サッカー専用スタジアムの建設が望ましい。ワールドカップを開催することは、そのスタジアムを建設する理由となるだろうという考えだった。90年10月、ワールドカップ招致準備事務局が設置された。

 

 ただ、プロリーグのない日本でワールドカップを開催することは、関係者でさえも現実感は薄かった。

 

 91年、稲川は制作プロダクションを退社した。

「サッカーの仕事ということを考えて、自分に何ができるのかと。ぼく自身が指導者をやっていましたし、選手に近いところが仕事になるのではないかと考えました。自分は広告業界にいたので、代理人のようなコミッションビジネスがあるというのは理解していました」

 

 サッカークラブに選手を紹介する広義の代理人という仕事は、日本リーグがブラジル人選手を受け入れた直後から存在した。ただ、狭義の代理人業――スポーツエージェントは86年に納谷宣雄がブラジル人指導者のジノ・サニを読売クラブに紹介したことを嚆矢とする。

 

 納谷は三浦知良の実父である。稲川も納谷の存在を意識していた。

「どうやればエージェントになれるなんて分かっていなかった。ぼくも納谷さんのように外国人選手を扱ってみたかった。でも、ぽっと出の餓鬼が何を喋ったところで相手にされない」

 

 ファウルありきのトレーニング

 

 そこでまず稲川は約2カ月の滞在予定でブラジルに飛ぶことにした。

「ブラジルのサッカーは凄い、凄いというけど、確かにセレソンも強くて、いい選手を輩出している。ただ、何がどう凄いのか分からない。自分の目で見てみたいと思ったんです」

 

 90年代前半は、ブラジル国内リーグが世界最高峰リーグであった最後の時代でもあった。

 

 トヨタカップでFCバルセロナ、ACミランを破って連覇したサンパウロFCには、ライー、ミューレル、カフーなどのブラジル代表が在籍。監督はブラジル代表を率いた経験もあるテレ・サンターナである。その他、コリンチャンス、フラメンゴといったクラブもサンパウロに伍する力を保っていた。

 

「将来自分が日本に選手を連れて行くときに、どれがいい選手なのか見抜く必要があった。それ以前に、当時はインターネットもなかったので、日本では全くブラジルサッカーの情報がなかった。最初はポルトガル語で左サイドバックのことを“ラテラウ・エスケルダ”と呼ぶところから始めたんです」

 

 サンパウロ、リオ・デ・ジャネイロを中心に稲川は様々な試合を観戦した。そこで気がついたのは、フィジカルコンタクトの激しさだった。

 

「最初は当たりがきつい、厳しいなと思いました。えぐいこともやってくる。ただ、そうしたことをかいくぐってので巧いのだろうなと。あとはピッチに降りてみると、ガタガタで平らじゃないんです。そして下は芝生じゃない。雑草」

 

“草”の上を踏みしめてみると、ふわふわとしている。この上でサッカーをするには技術はもちろんだが、強靱な足腰が必要だった。

 

 トップリーグの他、下部組織の試合、練習にも足を運んでいる。

「小学生ぐらいの選手の練習を見に行ったことがあります。コーチが笛を吹くと1人の選手がドリブルを始める。その選手の周りに5、6人で円をつくって動いていくんです。笛が鳴ったら、周りの選手はそれこそ殴ってもいい。その中でバランスを崩さずにドリブルしていくという練習をしていた」

 

 ピッチの中では汚い手を使ってくる選手もいる。それを織り込み済みで子どもの頃から練習をしていたのだ。

 

 稲川はブラジルのサッカー選手の逞しさと合理性を改めて思い知った。そして、こうした選手を日本に連れて行けば面白いだろうなと胸を弾ませていた。

 

 しかし、思い通りにはいかなかった――。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。
著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com

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