森薗美月は卓球一家に生まれた。両親は卓球経験者。父・稔は中学から実業団まで競技を続けた。父の双子の弟も元卓球選手で、その子どもたちも森薗より早く卓球を習っていた。ところが、彼女が本格的に卓球を始めたのは小学1年時である。それまで森薗はクラシックバレエとピアノを習っており、歌って踊れる宝塚歌劇団に入ることを夢見ていたからだ。

 

 森薗は活発でおてんばな少女だった。近くの山を走り回り、有り余る体力を発散していた。習い事も多く、バレエ、ピアノの他に水泳、絵画、英語、算数などを学んだ。特にバレエは愛媛バレエアカデミーの指導者に目をかけられるほどだったという。

 

 転機は突然、訪れた。森薗が幼稚園の年長になった年の正月。東京で暮らすいとこが愛媛にやって来た。4歳上の美咲と1歳上の政崇が松山の卓球場で練習をしていた。ついて行った森薗の目には、その光景が“すごく楽しそう”に映った。実際に年の近い政崇に遊んでもらうと、卓球が楽しく、そして惹かれていった。

 

「私も卓球がやりたい」

 森薗が父に直訴すると、ひとつの選択を迫られた。それは卓球を始めるか、クラシックバレエを続けるかの二者択一だった。

 

 父・稔の回想――。

「私は双子の弟が卓球をしていたので、いつも比較されていました。美月も卓球を始めればいとこと比較される。それに上を目指すのは簡単なことではないですし、一生懸命頑張れば報われるというわけでもなかった。生半可な気持ちではできないので、ゼロか100だったんです」

 この世界の厳しさを知るからこそ、娘に決断させた。

 

 一方、森薗は宝塚入りを夢見ていたのでバレエを辞めることに迷いがあった。

「私なりにすごく悩んで、“卓球をする”と決めました。ラケットを持たせてもらう前には『卓球をするなら、お父さんのこと嫌いになるぞ。厳しいからな』と言われました。『やるなら遊びじゃなくて、目標を決めてやれ』とも。その時に私は『世界チャンピオンになる』と答えました」

 

 父とコーチと掴んだ初の全国制覇

 

 ひとり娘の覚悟を知り、家族も全力をあげてのバックアップを決めた。森薗家は愛媛県松山市に住んでいたが、今治市の清水クラブに通った。同クラブでは「卓球の楽しさを教えてくれました」(森薗)という。さらに森薗家では居間を改築して卓球台を置けるスペースを作った。清水クラブで練習する以外の時間は、父・稔によるスパルタ特訓に充てられた。

 

「とにかく厳しかった」という指導にも、森薗の心は折れなかった。父も卓球も嫌いになることはなかった。

「清水クラブでは卓球を楽しくやらせてくれるし、友達もいっぱいできました。父の指導は厳しかったですが、清水クラブとのバランスが良かったのかもしれません。少しずつ力もついてきて、強くなっていった。それでなおさら面白くなっていきました。そうやって卓球にのめり込んでいった感じです」

 

 森薗は小学3年で愛媛TTCに入団する。練習場が家から近づく利点もあったが、何より中国出身の張良(現在は日本国籍を取得し、張本良)コーチと出会えたことが大きかった。

「自分の卓球は張先生と父とで作り上げてきた。張先生とは技術面でそっくりと言われます。小さい頃は考えてやるよりも、身体に染み込ませていく感じでした」

 

 2人の指導により、森薗は頭角を現していく。小学5年時に「JOCジュニアオリンピックカップ 全日本卓球選手権大会カデット(中学1年以下)の部」でシングルスのベスト8に入ると、翌年には同大会で優勝した。決勝で破ったのは同学年の前田美優。香川県出身の前田とは対戦することも少なくなく、意識する相手だった。「同じ四国なので、いろいろな大会で当たっていて勝率は低かった。小学校の時は家に“打倒・前田美優”と貼っていました」。初の全国制覇は、そのライバルをファイナルゲームで下し、手にした。

 

 JOCジュニアオリンピックカップは卓球界における登竜門的存在だ。オリンピックメダリストの福原愛、石川佳純も優勝を経験している。しかし、無我夢中でここまで駆け上がってきた森薗は不安も抱えていたのだ。

「自信になったと同時に“あれ、ここまできて大丈夫なんかな?”と思ってしまったんです。普通に考えれば、優勝して自信を持って“次だ!”と上を目指すのですが、その時はちょっと足踏みしましたね」

 

 故郷・愛媛でのリスタート

 

 翌年、森薗はJOCエリートアカデミーへ進むこととなった。同アカデミーは中学1年から高校3年までを対象に、JOCが全国から有望選手を東京都に集めて育成する組織だ。2017年全日本選手権女子シングルスの平野美宇、2018年全日本選手権男子シングルスの張本智和らが在校生である。森薗はその2期生にあたる。

 

 生まれ故郷・愛媛を離れ、東京で暮らすこととなった。父・稔は「不安がなかったと言えば嘘になりますが、ウチの子に限らずトップレベルにいく子はそういう流れの中でやっているので“チャンス”だと思っていました」と語る。

 

 JOCアカデミー時代は環境に馴染めず、「苦しかった」と本人は当時を振り返る。

「“何がしたいのかわからない”という感じでした。いろいろ自分なりにも悩みました。それまでひとりっ子で、親は厳しかったですが、私だけを見てくれた。だから自分だけに注目されないことが、ちょっと悔しかったのかもしれません」

 通常の学校生活とは違い、アカデミーでは同期も年上だった。「反抗期だった」森薗は多感な時期に心落ち着ける場所を見つけられなかった。

 

 悩んだ末に森薗は一旦、東京を離れる決意をした。「休養してからよく考えて、愛媛に帰ることにしました」。故郷で再起を目指すことを決めた。父・稔も「上を目指すにはここで止まっているわけにはいかなかった」と、その判断を後押しした。転校した旭中学には卓球部がなかったため、古巣の愛媛TTCで練習を積んだ。再び父・稔と張コーチの2人体制で指導を受けることになった。

 

 週末は県外に出稽古に向かい、中学2年時には中国遠征も敢行した。卓球王国での質の高い練習を積むことが狙いだった。父・稔によれば、技術面より精神面での成長が見られたという。「今まではやらされていたようなところがありましたが、自分から技術を取りに行く姿勢になったんじゃないかなと思います」。東京での挫折は決して無駄にはなっていなかった。

 

 そして、その年の夏には全国中学体育大会(全中)のシングルスで準優勝を果たす。約2年ぶりの日本一とはならなかったものの、再び全国の舞台で活躍できることを証明した。このまま浮上のきっかけを掴むかと思われた――。

 

 ところが、森薗の卓球人生は“山あり谷あり”である。中学3年時からは第2の“山”が彼女を待ち受けていたのだった。

 

(第3回につづく)

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森薗美月(もりぞの・みづき)プロフィール>

1996年4月9日、愛媛県松山市生まれ。いとこの影響で小学1年から卓球を始める。6年時にJOCジュニアオリンピックカップ女子カデットの部(中学1年生以下)で優勝。中学2年時には全国中学生体育大会で準優勝した。大阪・四天王寺高進学後、高校3年時に全国高校総合体育大会で団体優勝と女子ダブルスで準Vを果たした。14年全日本選手権では女子ダブルス2014年サンリツ入社。16年全日本社会人女子シングルス制覇。身長152cm。右シェークフォア裏裏ドライブ型。

 

(文・プロフィール写真/杉浦泰介、インタビュー写真/大木雄貴)

 


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