「あの頃は卓球に対して、フィルターがかかっているような感じでした。何のためにやっているのか、わからなくなっていました」

 森薗美月が振り返る「あの頃」とは中学3年から高校2年にかけての約3年間である。当時を思い出しながら「苦しかった……」と呟くほど彼女にとっては苦難の時期だった。

 

 中学に進学し、JOCエリートアカデミーに入った当初も森薗は悩んでいた。地元・愛媛県に戻り、再び愛媛TTCで張良(現在は張本良)コーチの指導を受けた。森薗は中学2年時に全国中学体育大会(全中)シングルスで準優勝を果たすなど完全復活を果たしたかに思われた。

 

 霧が晴れないスランプ

 

 だが彼女に試練が訪れた。絶大な信頼を寄せていた張コーチが東北へと飛び立ったのだ。母校の青森山田で指導をするためである。当時の森薗には張コーチを追いかけて、青森に行くという選択肢はなかった。

「そこで混乱してしまいました。今までずっと一緒にやってきた人がいなくなり、“私はどうしよう”と。ただ2017年の愛媛国体に出たかった。小学生の時から愛媛県に支援をしていただいていたので、恩返をしたい気持ちがあったんです」

 

 2005年より導入された「ふるさと制度」は成年の部において、選手が現所属先の都道府県に限らず、代表になれる制度だった。それには以下の条件が必要なのだ。

<卒業中学校又は卒業高等学校のいずれかの所在地が属する都道府県とする>(財団法人日本体育協会)

 

 高校、その先の所属先がどこの都道府県であれ、愛媛県の中学校を卒業さえすれば国体で愛媛県代表の資格を有するということ。だから森薗は愛媛を離れられなかった。「代わりに新しいコーチが来たのですが、あの頃の私は張先生以外に見てもらったことがほとんどなかった。柔軟性もなくて、うまくいかなかったんです」。中学3年時の全中はベスト8。2年時に準優勝したことを考えれば、決して満足のいく結果ではない。

 

 そして森薗の前に漂う霧は、四天王寺高校に進学しても晴れることはなかった。四天王寺高は大阪府藤井寺市にある中高一貫校である。卓球の名門校として知られ、全国大会で数多のタイトルを獲得。四天王寺高は小西杏、藤沼亜衣、石川佳純らオリンピアンを輩出している。寮に併設された練習場は実業団の名門ミキハウスのトレーニング拠点でもあった。

 

 国内トップクラスの環境でもまれながら、結果を出せずモヤモヤだけが募った。前田美優、森さくら、阿部愛莉など同学年の選手たちは好成績を残していた。下の世代からの突き上げもあった。

「なかなか勝てないから、卓球がつまらなかった。練習ではボールが入るのに、試合で発揮できない。そんな時期が続いていたんです。私は小学6年で全国大会優勝するなど中途半端に結果も出ていたのでプライドがあった。試合では勝てない。小学生の時に自分の方が強かったのに中学生になったら同世代の子にも負ける。年下の子たちもどんどん強くなっていく。もうつらくて、つらくて。苦しい時期は長かったです」

 

 それでも辞めようとは思わなかった。

「家族は常に味方をしてくれていました。苦しい時にお母さんが『辞めてもいいんだよ』と言ってくれたので、少し楽になりました。ただ卓球しか知らなかったし、辞めて何をすればいいのかわからなかった」

 他にやることが見つからなかった。宝塚歌劇団に入ることはとうに諦めていた。前向きな理由ではないかもしれない。とにかく彼女は卓球を続けた。

 

 王子で再燃した卓球の楽しさ

 

 しかし森薗に降りかかる試練はこれだけにとどまらない。高2の1月、練習中に激痛が走った。バンッと音がした右足はアキレス腱の部分断裂だった。気持ちの落ち込んでいた時期に大ケガ。惨敗に終わった全日本選手権から帰ってきてばかりの出来事だった。“泣きっ面に蜂”とはこのことである。

 

「今までにないくらい落ち込みました」という森薗。治療のために手術という選択肢もあったが、どうしてもメスは入れたくなかった。「お父さんが過去に1回、メスを入れていて、しびれが残っているという話を聞いたことがありました。だから私はどうしても、自然に治したかった」。医師から告げられた手術をしない場合の全治は約半年だった。

 

 ところが、無我夢中で駆け抜けてきた森薗にとって、この時間が良い休息となった。

「自分自身のことをもっと勉強しようと思いました。“自分がどんな人間なのか”と考える時間にもなりました。そういう本もたくさん読みましたし、いろいろ試合のビデオも観た」

 藁にもすがる思いだったのだろう。本人によれば「その時に読んでいた本は覚えていません」という。「とにかく自分のメンタルをちょっとでも上げるために文字を読んでいました」

 

 彼女は心と同時に肉体も鍛えようとした。右足は使えなくても、それ以外の部分でトレーニングできる。体幹を中心に鍛えていくと、なんとか5月の全国高校総合体育大会(インターハイ)予選には間に合いそうだった。しかし、これだけラケットを握らなかったことは初めてだった。

「最初は、自分はイメージしているのに身体が全く追い付いてこない。全部、空振りをして自分でも“大丈夫かな?”と思いながら卓球をしていました。でも、久々に心から“楽しい”と感じました」

 リセットされてしまった感覚が、彼女を初心にかえしたのかもしれない。

 

 森薗に卓球の楽しさが再燃したのは他にも理由がある。復帰後の練習は「王子卓球センター」で行っていた。いわゆる王子組である。

 

 王子組とミキハウス組――。四天王寺高には2つのグループが存在する。四天王寺高の練習場でミキハウスの選手たちとトレーニングを積むのがミキハウス組。いわゆるエリートたちはそこで鍛えられていく。一方、大阪市阿倍野区王子町にある「王子卓球センター」で練習するのが王子組である。こちらは森薗のように伸び悩んでいる子が門を叩くことも少なくない。

 

 王子には青果店の店主と卓球指導者の“二足のわらじ”を履く異色のコーチがいた。王子サーブの生みの親で知られる作馬六郎である。森薗の卓球観は作馬コーチと出会ったことで変わっていく。

「それまでの私は卓球で勝つことしか頭になかった。卓球で負けることは“もう終わり”みたいな考え方でした。そんな時に王子の練習場で作馬さんに『負けても死なんから』と言われたんです。『卓球でうまくいっても、人生がうまくいかんかったら、幸せやなかったら、アカンやろ』とも」

 その言葉で、目の前の霧が晴れた気がした。

 

 ケガで強度の高い練習を詰めなかった時間は、彼女の技術面においては成長の足踏みになったかもしれない。だが精神面においては多くのことをインプットする大切な助走期間となった。

 

 快進撃の高校3年時

 

 迎えた高校3年時に森薗は快進撃を見せる。まずは2014年のインターハイだ。山梨県で開催された大会でシングルスはベスト16に終わったが、阿部と組んだダブルスでは準優勝を果たした。学校対抗では主力として起用され、決勝進出に貢献した。

 

 決勝は幼少期からのライバル・前田を擁する希望が丘高。前田はシングルス、ダブルスでの3冠が懸かっていた。「久しぶりに自分の卓球ができました」という決勝は、2対2で迎えた。森薗のシングルスの結果次第で優勝するか否かが決まる重要な役回りだった。

 

「チームのラストに置いてもらったからには“勝ちたい”と思っていました。ただ作馬さんの言うように負けても死なんし、とりあえず自分の好きな卓球をやろうと思えたんです」

 胃の縮むようなプレッシャーがかかる場面でも森薗は吹っ切れていた。だから2ゲームを先取しながら追い付かれても慌てなかった。

 

 相手に傾きかけた流れを強引にでも引き戻した。ファイナルゲームは11-3でもぎ取った。「五分五分になって、諦めていた人もいたかもしれない。だけど私は違いました」。追い込まれた時の方が強い。森薗の真骨頂だった。

 

 年が明けると高校最後の全日本選手権を迎えた。シングルスでは3回戦敗退。だがダブルスで日本一に近付く。相棒はインターハイと同じ阿部と組んだ。「高校生の時、阿部さんにはすごく助けてもらって。自分のいいところをいっぱい引き出してもらえました」。思い切りの良いスイングで強打する森薗に、冷静にゲームを組み立てる阿部の戦型はマッチした。

 

 ウマが合ったのは戦型だけではない。

「私がミスをして、『ごめん』と言いそうになった時にも『いいよ。次があるからどんどん振っていけばいいじゃん。タイミングだけ合わせて』と言ってくれたのはすごく心強かった」

 

 森薗と阿部は初戦(2回戦)で高校生ペアに3-1で勝利すると、大学生ペア、実業団ペアを連破して決勝へとコマを進める。それも3回戦以降は全てストレート勝ち。迎えた決勝の相手は平野早矢香と石川のペア。前年度の優勝ペアで全日本は2度制していた。

 

 第1ゲームは落としたものの、2ゲームを連取した。森薗たちはあと1ゲームで全日本制覇というところまで迫ったが、残りの2ゲームを奪い返された。“日本一”の称号にはあと一歩届かなかったものの、ロンドン五輪で銀メダルを獲得した2人を相手にあわや大番狂わせ。大健闘とも言える結果だった。

 

 試合後、石川が「阿部さんと森薗さんの勢いはすごかったです。思った以上に、思い切りぶつかってきて、すごく強かった」と語れば、平野は「ラリーではしぶとくボールを入れてきて、勢いだけではない、強いペアだと感じました」と2人の実力を認めた。森薗は「悔しいけど自信にはなりました」と語ったように持ち味は存分に発揮した。「楽しむことができた」。吹っ切れた時の彼女は強い。そう思わせた高校3年時の快進撃は幕を閉じた。

 

 高校卒業後、森薗はさらに東へ進路を取る。大阪から関東へと居を移す。かつて父・稔が在籍したサンリツに入社するのだった。

 

(最終回につづく)

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森薗美月(もりぞの・みづき)プロフィール>

1996年4月9日、愛媛県松山市生まれ。いとこの影響で小学1年から卓球を始める。6年時にJOCジュニアオリンピックカップ女子カデットの部(中学1年生以下)で優勝。中学2年時には全国中学生体育大会で準優勝した。大阪・四天王寺高進学後、高校3年時に全国高校総合体育大会で団体優勝と女子ダブルスで準Vを果たした。14年全日本選手権では女子ダブルス2014年サンリツ入社。16年全日本社会人女子シングルス制覇。身長152cm。右シェークフォア裏裏ドライブ型。

 

(文・写真/杉浦泰介、インタビュー写真/大木雄貴)

 


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