「運動神経はいいものがある。息子が小さい時からそう思っていました」

 

 西丸泰史の父・謙二の言葉である。自身が元高校球児だったこともあり、息子の持つアスリートとしての資質を一早く見抜いていたが、特に野球を薦めることはしなかった。とはいえ息子が父親の影響を受けるのは、ごく自然なこと。「気づいたら野球が好きになっていました」と西丸本人は言う。

 

 野球を覚えたのは5歳ころ、幼稚園の時まで遡る。だが西丸の才能はひとつの競技に限られたものではなかった。父・謙二が回想する。「ほとんどのスポーツは多分できたと思います。そのなかでも特にゴルフと野球でしたね。ゴルフは3歳からやっていましたから。小学校2年生の時にちょっとした“人生の選択”がありまして。ゴルフの道か野球の道かという。本人がそこで迷わず野球を取ったわけです」

 

 こうして西丸は地元・香川県三木町の氷上軟式野球スポ―ツ少年団に入団した。父・謙二は同チームでコーチをしていたため、親子で同じ道を歩むこととなった。指導方針は、“型にはめ込まない”こと。子供の頃は技術論を詰め込むのではなく、自分が思うようにやり切らせることで感覚を養うのが目的だ。さらに野球以外も幅広く運動をさせたいという父の意向で、西丸は野球以外のスポーツにも精を出し、体を動かす感覚を身につけていった。

 

 両打ちから左打ちへ

 

 とりわけ幼少よりプレーしていたゴルフによって体の軸が養成されたと父・謙二は見ている。西丸は野球を覚えた時から左打ちであったが、ゴルフでは右打ちだった。ふたつの競技を並行して行ったことで、体のバランスが鍛えられたというのだ。プロ野球選手でも、体に着く筋肉のバランスや感覚の乱れを修正するため、右打者が左で素振り(左打者はその逆)、いわゆる“逆振り”をすることがある。西丸は無意識のうちに、最もフィットするスイングを、そしてそれを支える身体的土台を手にしていた。

 

 さらに西丸は面白い話を聞かせてくれた。
「自分は元々左打ちでしたが、幼稚園の時に仲間内で僕だけ左だったんです。“なんで自分だけ左なんやろう”と感じて。それで右打ちの子に負けたくないと思い、右でも打つようになりました。小学校高学年くらいまで両打ちで、遜色なく打てていました。ところがある日、たまたま左で振っているところを見た父が、“左の方がいい”と指摘したことがきっかけで、専念することにしたのです」

 

 左打ち一本を進言した理由を父・謙二は「目です」と語り、こう説明した。
「利き目が左打ちに適する右目じゃないかなと思ったので、左に絞りました」

 

 野球一筋

 

 天性の運動神経を有していた西丸は、どんな少年だったのだろうか。本人は照れくさそうに苦笑いしながらこう語った。「とにかく負けず嫌いなうえに、やり出したら止まらない性格。熱中したものには親が“もうエエやろう”と言うまで、とことん打ち込む子供でした。野球を本格的に始めてからは野球一筋ですね」

 

 父・謙二が補足する。「全く物怖じしない子でした。内野を守っていて、年上の子がピッチャーでも自分で勝手にタイムをかけて声をかけてしまうようなタイプ。打ち込んだら熱心で、小学校の時から練習を何時間もする子でした。本人に“野球が好きだ”という強い思いがあることが分かった時に、こちらも“それならひたすらバックアップしよう”と思ったものです」

 

 小学生の時はショートを守る時もあったものの、主にピッチャーとして活躍した西丸。打撃でも4番を打っていたが、当時は打つことよりも投げることのほうが好きだったという。このまま“エースで中軸”を継続する野望を胸に、中学校へ進学する。

 

 さて、次なるステージでは、今後の人生を左右する大きな転換点が待っていた。そしてそれは結果として、現在の「西丸泰史」という選手の礎を築く時期だったのだ。

 

<西丸泰史(にしまる・たいし)プロフィール>
1996年10月18日、香川県木田郡三木町生まれ。小学1年で野球を始める。氷上小、三木中を経て尽誠学園高に進学。1年生からショートでレギュラーの座を掴んで以来、不動のレギュラーとなった。高校2年生時、春の四国大会で獅子奮迅の大活躍。クリーンアップとして得意の打撃で、四国大会制覇に貢献した。高校卒業後は東都大学野球リーグの國學院大学に進学。強打の内野手として活躍中。2017年春季リーグ戦ベストナインに、指名打者部門で選出された。2018年からは主将を務める。身長178cm、体重78kg。

 

(文・写真/交告承已)

 


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