いささか旧聞に属する話だが、3月31日、マツダスタジアムでの広島対中日戦で、中日ファンの男性が「原爆落ちろ、カープ」とスタンドから心ないヤジを飛ばし、その様子の動画をツイッターに投稿までした行為は広島ファンのみならず多くのプロ野球ファンを傷付け、野球というスポーツを冒涜するものだった。


 それを受け、地元の中国新聞には次のような78歳の女性の投稿が掲載された。<カープは焦土と化した町の復興と共に歩み、夢と希望を与えてくれた広島の宝でもある>(7日付)


 原爆で廃墟と化した広島に健全なスポーツを育て、精神的な復興の一助とする――。広島の球団創設の理念はあまねく知られている。その理念に基づき、今から64年前の1954年1月にはフィリピン遠征を行っている。ミッションは「日比親善」。この事実は球団が単に復興のシンボルとして存在したのではなく、平和構築のための主体的かつ能動的な装置として機能してきたことを意味している。


 フィリピン遠征の橋渡しをしたのは地元出身の代議士・松本瀧蔵だ。2016年には野球を通じた戦後復興や国際交流に尽力した功績により野球殿堂入りを果たしている。


 選手たちを前に、松本はこう語ったという。「今回の比島訪問には二つの意義がある。戦犯釈放問題に対する国民使節的意義と、スポーツを通じて国民感情をやわらげ、賠償解決の糸口をつけることだ」


 1954年といえば、まだ大戦の傷は癒えていない。戦時中、抗日ゲリラ隊の隊長だったアルセニオ・ラクソン・マニラ市長は当初、「日本人と口を聞くのもいやだ」と言ったという。日本人に対する国民感情は推して知るべしだった。


 フィリピンの人びとの対日感情を癒やし、親善に実効性を持たせたのは選手たちの懸命なプレーだった。戦績は、国内の大学、軍隊、企業チーム相手に11勝1敗。格下相手にも決して手抜きせず、それが逆に日本人の評価につながったという。「過去のことは一切忘れて日比親善のため一緒にやっていこう」。政府要人から、その言葉を聞いた時の松本の心中は、いかばかりだったか。


 こうした先人たちの努力や労苦が球団の歴史に輝かしい彩りを添えている。その意味で広島カープは「市民球団」であると同時に「国際球団」でもあるのだ。歳月に埋もれた史実を見過ごしてはならない。

 

<この原稿は18年4月18日付『スポーツニッポン』に掲載されています>


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