いつも愛読ありがとうございます。これまで二宮清純、書籍編集者・上田哲之氏の2人が執筆していた「カープ・アイ」に今月から新連載が加わりました。フリーライター西本恵氏が広島カープの歴史を掘り下げる「カープの考古学」です。掲載は毎月第3木曜日。二宮と上田氏の掲載日はそれぞれ第1木曜日、第2木曜日です。新連載も合わせ、これからも「カープ・アイ」をよろしくお願いいたします。(スポーツコミュニケーションズ編集部)


 

 広島カープがプロ野球に参入したのは、昭和25年のシーズンからである。

 

 この年、日本球界は初の2リーグ制を導入した。前年4月、プロ野球生みの親とされた正力松太郎(当時、日本野球連盟総裁)が提唱した2リーグ構想に端を発したことによるものだ。これを受けて、広島にもプロ球団創設の機運が高まった。

 

 カープ以前の"鯉"軍団

 昭和24年9月28日、「チーム名は"鯉"」と中国新聞は伝えた。ここからカープの創立準備委員会がつくられ、当時、代議士であった谷川昇らが動きを早めていくのだ。

 

 昭和24年11月28日、セントラルリーグ連盟に株式会社廣島野球倶楽部の届け出が受理された。正式にカープが誕生した日をあげるならば、届け出が受理されたこの日である。これは歴史上の紛れもない事実である。

 

 ところが、それ以前に、広島でプロ野球参入をもくろむ動きがあった。そう聞くと、多くのファンは驚くであろう。

 

 新連載「カープの考古学」の開始にあたって、まずその「前史」をドラマとして記すべきではないだろうか--。脚光を浴びる表舞台のグラウンドでは知ることができない苦悩や葛藤。プロ野球参入という夢に対して資金を提供した実業家らにとってのドラマが、被爆後、間もない広島にあった。

 

 話はカープ誕生の3年前にさかのぼる。

 

 昭和21年、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれ、先の見えない時代だった。戦後すぐに、広島の中心街に劇場、映画館や料亭、バー、キャバレーなど、いち早く娯楽施設を展開した「鯉城園(りじょうえん)」という会社があった。その娯楽の延長戦上でもあったのか、同社はノンプロの野球チームを結成したのだ。

 

 社長は森田克巳(明治35年生まれ)。そして彼の妻は森田よし子(明治39年生まれ)。彼女はカープ誕生後に樽募金を行い、女性後援会を結成。さらにエース長谷川良平の名古屋軍による引き抜き事件があった際には、名古屋まで出向いて、自ら連れ戻したという逸話を持つ。この女傑のことは、のちのちの連載で触れよう。

 

 筆者は森田の孫である木下亜紀子に会い、話を聞いた。彼女は当時の鯉城園の栄華をこう伝え聞いていた。

 

「お堅い施設はつくらなかったと聞いています。すべて娯楽施設ばかりだったそうです。お客さんでやって来るのは裕福な人ばかりだったから、お財布のヒモを緩めてもらい、お金を使ってもらう。祖父たちはそうしたことがとても上手かったんじゃないですかね」

 

 戦時下に発行した国債から慢性的なインフレに見舞われたお国事情の下、原爆被災直後の広島では物資の奪い合いのみならず、縄張り争いなど騒動が絶えなかった。闇市ではみかじめ料がせしめられることもあり、今の社会情勢とは大きく異なっていた。しかし、この戦後の物資不足を背景に、ここぞとばかりに必需品を提供する流れをつくった戦後成金がいた。彼らは遊ぶ場所、娯楽施設を欲したとされる。余談であるが、鯉城園を興した森田の名前は現在、広島の繁華街に唯一、森田ビルとして残っている。

 

 最強のノンプロ「鯉城園」

 森田がつくったノンプロチームの名前は「鯉城園倶楽部」といった。主力選手には、戦前からプロ野球で名手として鳴らした、濃人渉(*1)。のちにカープの監督にもなる門前眞佐人(*2)。さらに、岩本信一(*3)、平桝敏男(*4)らが名を連ねた。野球の名門である広陵中学出身者が多かったのも特徴である。

 

 この夢のチームは奮闘した。広島を壊滅的な廃墟にした原爆投下からわずか11カ月後のことだ。町の復興に先がけて、野球王国の復興ののろしが上がった。昭和21年7月、都市対抗野球の広島県予選から「鯉城園倶楽部」は脚光を浴びた。

 

 鯉城園は万全の体制でのぞみ、県大会決勝で全廣島と対戦した。これを5対2で下して勢いづいたのか、中国地区予選では全出雲(島根)を8対1と寄せつけず、決勝では玉島倶楽部(岡山)に14対9と打ち勝って、後楽園での全国大会に駒を進めたのだ。

 

 勢いに乗り「さあ、全国制覇」と息巻いた。一回戦の相手は、元プロ野球投手の中原宏(*5)を擁する大日本土木(岐阜市)である。1回に3点を先制し、4回にも1点を加えて試合を優位に進めた。7回を終えて5対3。ところが、底力を発揮した大日本土木は8回に同点に追いつき、試合は5対5で延長戦に突入した。

 

 大日本土木が10回に2点を加え万事休す、と思われた。だが、その裏、鯉城園は2点を入れて追いついた。あの原爆の惨禍にあった広島の選手らの活躍に、球場全体が敵味方関係なく沸き上がった。戦争の痛手から立ち直ろうとする人々の琴線に触れたのか、場内は感動の拍手が鳴りやまなかったと伝えられている。

 

 ただし、奮闘もここまでだった。大日本土木が延長11回に3点を奪い、これで勝負あり。大日本土木はそのまま決勝まで勝ち上がり、全国制覇を成し遂げたのである。ただひとつ付け加えるならば、以降の3試合を投げ抜いた中原投手の総失点数はわずか4点。いかに鯉城園の攻撃陣が素晴らしいものであったかが伺える。

 

 主力引き抜きで解散

 強打の鯉城園をプロ野球に参入させたい。古くから野球には熱心で、プロの名選手を多く輩出している広島の人たちにしてみれば当然の願いでもあったろう。鯉城園社長夫人の森田よし子は以下のように語っている。<資金もあり、官庁の応援もあった。球場候補地もいくつか挙がったようです>(カープ30年・冨沢佐一著・中国新聞社刊)

 

 ところが、である。鯉城園が都市対抗で活躍したことが皮肉にもチームの危機につながった。「戦前の金鯱軍の名手、濃人がいるじゃないか」「あのタイガースの契約一号選手の門前真佐人もいるぞ」と評判になった。

 

 戦時中、プロ野球選手も招集され戦地に赴いた。戦火に散ったか、否か。戦後の混乱の中、所在もはっきりしない選手らも少なくなかったが、「生きていたのか」となれば、他のチームが放っておくはずもない。前年、日本野球機構は復興記念東西対抗戦という形で、いち早くプロ野球を再開させている。また、一方で幻のプロ野球と呼ばれた国民リーグ(国民野球連盟)も設立に向けて歩み始めていた。結果、濃人、門前らは、国民リーグへと吸い寄せられていったのだ。

 

 主力選手がいなくなると鯉城園倶楽部は成り立たない。ほどなくチームは解散となった。一大娯楽チェーンを営む森田の気風の良さもあったのか、彼はこのノンプロチームの継続をあっさりと諦めてしまう。だが、森田はのちに誕生するカープを物心ともに支えていくのである。以下は再び、森田の孫・木下亜紀子の述懐である。

 

「ひょっとして、(自分たちがプロに参入できず)悔しいという思いがあったかもしれませんが、一切の思いを断ち切って、カープを応援する側に回ったのだと思います」

 

 森田がプロ野球に対して私怨を抱くことも、私欲をはかることもなかったのは、明治生まれの気質というものであろうか。郷土・広島のためになるのならと、気持ちの切り替えも早かった。カープ(鯉)という名前が、この鯉城園に由来するという説はないが、無形のDNAとして、広島に産声をあげるカープにつながっていったのであろう。(つづく)

 

(カープの考古学・次回予告)鯉城園の他にも戦後、広島でプロ野球参入を目指した実業団があった。それは金子製作所。同社の事業には「鯉城煉炭」という煉炭製造事業もあったというが、ここにも「鯉」の文字が見られる。次回もカープ以前に"プロ野球"を目指したはかなくも大きな夢の史実を紹介しよう。

 

【注釈】 *1濃人渉(広陵-専売広島-名古屋金鯱-大洋-西鉄-鯉城園-金星)。*2門前眞佐人(広陵-大阪-鯉城園-結城-大塚-金星-阪神-大洋-広島)。*3岩本信一(広陵-明治-明電舎-鯉城園-南海-大洋-松竹)。*4平桝敏男(広陵-慶応-大阪-鯉城園)。*5中原宏(享栄商業-阪神-大日本土木-南海)

 

【参考文献】「カープ30年」(冨沢佐一著・中国新聞社刊)
【取材協力】木下亜紀子

 

<西本恵(にしもと・めぐむ)プロフィール>フリーライター
1968年5月28日、山口県玖珂郡周東町(現・岩国市)生まれ。小学5年で「江夏の21球」に魅せられ、以後、野球に関する読み物に興味を抱く。広島修道大学卒業後、サラリーマン生活6年。その後、地域コミュニティー誌編集に携わり、地元経済誌編集社で編集デスクを経験。35歳でフリーライターとして独立。雑誌、経済誌、フリーペーパーなどで野球関連、カープ関連の記事を執筆中。著書「広島カープ昔話・裏話-じゃけえカープが好きなんよ」(2008年・トーク出版刊)は、「広島カープ物語」(トーク出版刊)で漫画化。2014年、被爆70年スペシャルNHKドラマ「鯉昇れ、焦土の空へ」に制作協力。現在はテレビ、ラジオ、映画などのカープ史の企画制作において放送原稿や脚本の校閲などを担当する。

 

(このコーナーは二宮清純が第1週木曜、書籍編集者・上田哲之さんが第2週木曜、フリーライター西本恵さんが第3週木曜を担当します)


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