海を渡った大谷翔平(エンゼルス)が“本場”のメジャーリーグでも結果を残している。4月1日(日本時間)に投手として初勝利をあげ、2日後には打者として出場。本拠地デビュー戦で初ホームランを放った。勝利投手が2日以内に打者として出場し、ホームランを放つのは1921年6月13日、14日のベーブ・ルース以来の快挙。まさに大谷は“和製ベーブ・ルース”だ。ベーブ・ルースについて触れた22年前の原稿で、大谷がどれほど偉大な男と比較されているのか、今一度、確かめよう。

 

<この原稿は1996年10月8日号『Number』(文藝春秋)に掲載されたものです>

 

「ファンは、おれが一本の本塁打を右翼スタンドに打ち込むほうが、三本の二塁打を左翼に打つより満足してくれる」(ベーブ・ルースの言葉。『野球は言葉のスポーツ』より)

 

 奇しくもベーブ・ルース没後の50年の今年、メジャーリーグの年間本塁打記録が37年ぶりに更新された。

 

 9月8日(現地時間)、セントルイス・カージナルスの本拠地、ブッシュ・スタジアム。4回裏2死、カージナルスのマーク・マグワイアがシカゴ・カブスのスティーブ・トラックセルの初球ストレートを叩くと、打球はライナーとなって左翼ポール際のフェンスを越えた。新記録となる62号は、104メートルの今季最短アーチだった。

 

 マグワイアはホームベース付近でチームメイト全員と抱き合ったあと、ライバルのサミー・ソーサと抱擁を交わした。そのまま一塁側のフェンスを乗り越え、ロジャー・マリスの家族たちとも喜びを分かち合った。ひとり息子のマシュー君を抱き上げたりもした。この間、試合が中断すること11分。全米がひとりの男のパフォーマンスに酔い、興奮し続けた。実に4310万人もの国民がこの歴史的瞬間を目撃した。

 

 ベースボールをして、アメリカでは「ナショナル・パスタイム(国民的娯楽)」と呼ぶ。NFLもNBAも巨大なマーケットを誇るが、しかしMLBのそれを越えるものではない。

 

 ベースボールをしてナショナル・パスタイムたらしめるもの、それこそはホームランである。ゆえにホームランバッターのみが、真の意味で時代のヒーローになることができる。

 

 1930年、ベーブ・ルースはニューヨーク・ヤンキースと8万ドルで契約した。それは、当時の大統領ハーバート・フーバーの年俸を5000ドルも越えるものだった。すなわち、ルースにはそれだけの価値があると認められたのである。

 

 ベーブ・ルースが60本の年間本塁打を放った1927年といえば、世界恐慌の2年前ながらアメリカはまだ好景気の最中にあった。‘24年までにフォードは自動車を1000万台生産し、モータリゼーションの時代と呼ばれていた。ハリウッドのスターたちはジャズ・エイジのステータスとして豪華なキャディラックを乗り回し、それが羨望の眼差しで見られていた。

 

 1914年7月に始まった第一次世界大戦は、1919年6月のベルサイユ条約調印で終結するわけだが、この戦争で一番恩恵を受けたのは自国に戦場をさらすことのなかったアメリカだった。国中が繁栄を謳歌する中、ベーブ・ルースが出現した。1920年、初めてホームランを50本台(54本)に乗せたルースは翌‘21年には59本を放ち、アメリカのスーパースター的存在となった。ルースの豪快なホームランこそは、上昇アメリカのシンボルでもあったのだ。

 

 不滅の金字塔と思われたルースの60本は、1961年、ヤンキースの後輩ロジャー・マリスによって破られる。ミッキー・マントルという強力なライバルとのマッチアップにより本数を重ねたマリスは、162試合目でついにルースを越えることに成功したのだ。

 

 しかし、マリスは決して成功をおさめたプレイヤーとは言えなかった。彼はルースの60号に近づくにつれ、ありとあらゆる嫌がらせを受けた。それが原因で神経性の脱毛症にもなった。ルース派とみられる当時のコミッショナーは、ルースの時代より8ゲーム多い事実を指摘し、記録が誕生しても承認したくないという意向を示した。

 

 マリスの記録が歓迎されない理由は他にもあった。放物線を描く大アーチを連発したルースと比較した場合、ヤンキー・スタジアムのライトスタンドにラインドライブで飛び込むマリスのホームランは、決してアメリカ人のプライドを満足させるものではなかったからだ。ほとんどのアメリカ人にとって、マリスの新記録はルースの聖域を侵してしまったという意味において、できれば記憶から消し去りたい悪夢のようなものだった。

 

 マリスは語っている。

「もし私が61本のホームランを打たなかったならば、自分にとって野球はもっとずっと楽しいものだったろう」(『野球は言葉のスポーツ』より)

 

 マリスが61回目のアーチを架ける8カ月前、建国以来最高のスーパースターがアメリカに登場した。J・F・ケネディである。ケネディは史上最年少、43歳の若さで第35代大統領に就任した。CIAが背後で画策していたとされるキューバのピッグス湾侵攻はこの年の4月の出来事。翌‘62年10月には「キューバ危機」があり、穏健派とみられるケネディも“海上封鎖”という非常手段に訴えるしかなかった。

 

 ケネディはソ連のフルシチョフ書記長との交渉の結果、キューバからソ連製の核ミサイルを撤去することに成功する。このように‘61年から‘62年にかけては、アメリカの軍事プレゼンスがかなり突出した時期でもあった。

 

「時代の気分」という言葉はあまり好きではない。だが強いアメリカのシンボルとして、国民がホームランを求めていたことは当時のメジャーリーグ関係者の証言からも明らかである。ただ「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、ルースの聖域だけには足を踏み入れてはいけなかったのだ。

 

 年間本塁打記録のマリスといい、通算本塁打記録のハンク・アーロンといい、なぜメジャーリーグにおいてルースの記録を破ることはタブーだったのか。あくまでも個人的な解釈だが、それは次のように記号化される。

 

 ホームラン→ベーブ・ルース→ヤンキース→白人社会(球団のシルクハットは、英国からやってきた開拓者たちのシンボル)→国技としてのベースボール→その象徴としてのホームラン。かつてメジャーリーグは、こうした保守思想によって支えられていたのである。

 

 そして1998年――。東西の冷戦が終結し、軍事的にも政治的にも経済的にもアメリカがひとり勝ちのこの年に、マリスのホームラン記録が塗り替えられたのは、ある意味で必然だったのかもしれない。

 

 マグワイアが史上初となる3年連続50号を達成した8月20日、アメリカはケニアとタンザニアの米大使館爆破事件への報復として、アフガニスタン領内の「テロ組織の訓練施設」とスーダンの「化学兵器工場」に向け、100発近い巡航ミサイル・トマホークを発射した。アメリカのいくつかのメディアは「“不適切な関係”を吹き飛ばすために行った」とクリントン大統領を非難したが、それでも国民の80%近くが唐突とも思えるこの報復攻撃に理解を示した。アメリカは臆面もなく、大国意識を振りかざしてみせた。

 

 誤解を恐れずに言えば、まるでミサイルなみの威力を秘めるマグワイアのホームランこそは、アメリカの「時代の気分」を投影するものではなかったか。加えて言えば、復権なったアメリカの象徴ではなかったか。

 

 平均飛距離130.1メートル62本目まで)。復権なった大国のプライドを満足させるには、やはりこのくらいの飛距離は必要だろう。マッチョな体つきといい、規格外の飛距離といい、マグワイアこそは時代に選ばれたヒーローだった。ライバルであるドミニカ人への友情、両親や息子への愛もアメリカ人好みの「正義のヒーロー」には必要不可欠なファクターだった。

 

 ベーブ・ルース没後50年。アメリカ社会は変容すれども、今もホームランはその時代の真実の姿を映し続けている。

 

 そういえば、ホームランのことを「Big Swat」とも呼ぶ。スワットとは「ピシャリと撃つ」という意味である。ちなみにFBIでは、特殊部隊に「SWAT(Special Weapons And Tactics)」の名を付けている。


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