1993年にスタートしたJリーグは、欧州や南米のサッカーリーグ、そして日本のプロ野球(NPB)などを研究の上、制度設計が成されていた。

 

 球団名からホームタウンをはっきり明記し親会社の名称を外す、という英断はNPBを反面教師にしたものだ。

 

 長らくNPBの球団、特にパシフィックリーグは年間10億円単位の赤字を垂れ流してきた。それの元になったのは1954年の国税庁通達である。この通達により、球団の赤字分は、球団を所有する親会社の広告宣伝費で処理され続けていた。そのため、親会社が黒字を出している限り、球団は赤字でもいいという考えがあった。

 

 しかし、球団、あるいはサッカークラブは親会社の所有物なのか。地域の、あるいは応援する人々のものではないのか。親会社の名称を外すということは、スポンサーとクラブの関係だけでなく、スポーツクラブの存在価値を日本社会に問うテーゼでもあった。

 

 燻る若手のために

 

 こうした革新的な試みの一方、前例のない条文が逆にクラブや選手を不自由にすることもあった。その1つが、選手の移籍である。

 

 ブラジルでは「パス」という「保有権」が認められ、選手との契約と別に、パスの売買も行われていた。時に裏金と結びつきかねない、こうした不透明な交渉を避けるためだろう。Jリーグは年齢による〈移籍計数〉という制度が導入した。これは移籍する場合、年俸に選手の移籍計数を掛けた金額を、所属クラブに支払わなければならないというものだ。将来性のある若い選手ほど、移籍計数は高くなり、獲得しようとするクラブの負担は増える。

 

 この制度が人的流動性を奪っている面があった。

 

 稲川朝弘が出入りしていたヴェルディ川崎には、他のクラブならばレギュラーを張れる選手が燻っていた。その中の1人に菊原志郎がいた。

 

 69年生まれの菊原は、読売クラブの下部組織出身の選手である。稲川が大学生のときに率いていたクラブと読売クラブのジュニアユースが対戦している。そのとき、稲川は相手チームにいた菊原の巧さに舌を巻いた。

 

 86年2月、菊原は16歳7月で日本リーグデビュー。これは当時の最年少記録だった。90年には日本代表にも選ばれている。

 

 ところが――。

 

 ヴェルディの中盤には、ラモス瑠偉、戸塚哲也、北沢豪、柱谷哲二の日本代表クラスの選手がひしめいており、さらに永井秀樹ら若手も控えていた。

 

 稲川はこう振り返る。

「志郎は試合に使われていなかった。それで一泡吹かせてやろうということを彼も考えていたようです。そのとき、ぼくは(強化部長だった)小見(幸隆)さんと仲良くなっていた。それで志郎と小見さんに移籍の話を持ちかけたんです」

 

 稲川の頭にあった移籍先は浦和レッドダイヤモンズだった。

 

 レッズの前身は1950年創部の三菱重工業サッカー部だ。日本サッカーリーグ、天皇杯をそれぞれ4度優勝している名門クラブを引き継いだ。しかし、Jリーグ初年度は第1ステージ、第2ステージ共に最下位という散々な成績だった。

 

 画期的だった“事実上”のレンタル移籍

 

 稲川がレッズと関わり合いができたきっかけは、意外なところだった。

 

 あるとき、ベルギーの『ロイヤル・アントワープ』というクラブの元選手と知り合いになった。彼によるとロイヤル・アントワープがスタジアムなど施設の売却を検討しているという。そこで稲川は三菱自動車に話を持ち込むことにした。

 

 93年11月にマーストリヒト条約が発効、欧州連合(EU)が動き出していた。三菱自動車が欧州の拠点の一つとして使う可能性があると見たのだ。

「知り合いの紹介もあって、中村(裕一・三菱自動車)社長のプレゼンまで持っていくことができたんです。そのとき、レッズの社長だった清水泰男さん、森孝慈さんも同席していたんです。“面白い話だね”とみなさん興味を示してくださったのだけれど、“それよりもレッズをなんとかしてくれ”と言われたんです」

 

 メキシコオリンピック、銅メダルのメンバーでもある森はレッズの初代監督だった。93年シーズン終了後、成績不振の責任を取って退任していた。

 

 後任は横山謙三だった。

 

 横山は88年から91年まで日本代表監督を務めていた。菊原が日本代表に呼ばれたのは横山の時代だった。レッズでならば菊原の良さが生きるのではないかと稲川は閃いたのだ。

 

 そこで問題になったのがJリーグの統一契約書だった。菊原は93年シーズンはリーグ戦6試合、カップ戦6試合しか出場していない。ただ、読売クラブからの生え抜きであり、いずれヴェルディを支えていく逸材でもあった。移籍を認めることはないだろう。統一契約書は短期間の「レンタル移籍」を認めていなかったのだ。

 

 そこで稲川は裏技を考えた。

「そこで書類上は完全移籍ではあるんですが、1年契約として、契約終了後にはヴェルディに戻るというオプションをつけたのです」

 

 そして両クラブの合意により、移籍金は免除することになった。

 

 この菊原の浦和への移籍は、Jリーグの「レンタル移籍第1号」と書かれることがあるが、正確ではない。

 

 同時期、ヴェルディと契約が終了した鋤柄昌宏、菊原の弟で筑波大学の伸郎も稲川の手引きでレッズに入団した。

 

 その後、菊原と同じ方法で、名古屋グランパスエイトの元日本代表ミッドフィールダー、浅野哲也もレッズに移籍した。

 

 稲川は代理人として、大きく前に歩み出すことになった。

 

(つづく)

 

田崎健太(たざき・けんた)

 1968年3月13日京都市生まれ。ノンフィクション作家。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て、1999年末に退社。

著書に『W杯に群がる男たち―巨大サッカービジネスの闇―』(新潮文庫)、『偶然完全 勝新太郎伝』(講談社)、『維新漂流 中田宏は何を見たのか』(集英社インターナショナル)、『ザ・キングファーザー』(カンゼン)、『球童 伊良部秀輝伝』(講談社 ミズノスポーツライター賞優秀賞)、『真説・長州力 1951-2015』(集英社インターナショナル)、『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』(光文社新書)など。最新刊は『ドライチ』(カンゼン)。早稲田大学スポーツ産業研究所招聘研究員。公式サイトは、http://www.liberdade.com


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