小遣いが月に30万円だとか、いや違うとか、彼女がいるとかいないとか、今日は歩いたか走ったか、明日は痩せるか太るか……。今や野球界の話題を独り占めしている北海道日本ハムの怪物ルーキー中田翔。いいですねえ。彼の言動には華がある。
 キャンプ地の名護球場が東シナ海まで約170メートルの所にあると聞いて、「170メートルは打ったことがあるんで」とのたまったとか。言うもんだなあ。今年の名護は空前のにぎわいを見せるでしょう。

 どうしてもPL学園から西武ライオンズに入った時の清原和博(オリックス)を思い出してしまう。もちろん、キャンプ、オープン戦をこなさないと断定的なことは言えないが、高校卒業の時点で比べれば、打者としての完成度は清原の方が上だろう。清原は1年目から3割30本が現実的に思える打者だった。インハイに弱点があることは高校のときから見えていたが、それでも、プロの外角球をスタンドに運ぶ力があることはあきらかだった。

 ただ、持って生まれた可能性としては中田の方が上と見る。1年目は思うように打率が上がらず、ホームランも30本には届かないかもしれない。大阪桐蔭高校2年のとき夏の甲子園で、あの斎藤佑樹(早実―早稲田大)に手もなくひねられたように、最初はプロの変化球や揺さぶりに、もろさを見せるかもしれない。しかし、3年後には50本、5年後には60本塁打を打てる才能だろう。

 この話題の最大の美点は、プラス志向であることである。中田がいるからキャンプ地もにぎわうだろう。オープン戦もテレビ中継されるだろう。観客も入るだろう。開幕してからも、いつ打つか、どれくらい打つか注目され続けるから、日本ハム球団だけでなく、パ・リーグ、ひいては野球界全体に、プラスの効果を及ぼす。いわば市場が拡大する。スターのスターたるゆえんである。

 だから、何度でも言うが、残念でならない。彼の出身地のプロ球団である広島カープは、なぜドラフト指名さえしようとしなかったのか。もし、運よくクジが当たれば、今頃、名護のにぎわいは、カープのものだったかもしれないのに。

 私はたまに広島に帰省する(本当にたまになのだが)。その度に気になることがある。
 現在の広島市民球場の向かい側に、原爆ドームがある。昔見ていた原爆ドームより小さくなったような気がして仕方ないのだ。

 原爆ドーム、および広島平和記念資料館には、相変わらず多くの観光客が訪れている。外国人も目につく。彼らは、あのドームを見て、どんな感想をもつのだろう。仮に私が東京に生まれ育った高校生で、修学旅行で訪れたとしよう。「意外に小さいものなんだな」と感じるような気がしてならない。

 もしかして、60余年前の歳月は、瓦礫や鉄骨を小さくしてしまうものなのだろうか。思いあまって、名著『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、これは本当に素晴しい本です。ぜひ一読を)の著者・福岡伸一さんに聞いたところ、実際に小さくなるのだそうだ。空気に触れ、あるいは風雨にさらされ、瓦礫や鉄骨の分子は少しずつ空中や地中に漏れ出る(私は科学者ではないので、表現が不正確だったら、ごめんなさい)。

 そして100年放置しておけば、ほぼ消えてなくなるのだそうだ。もちろん為政者もそれくらいはわかっていて、原爆ドームの補修工事はなされている。それでも、人間の技術は自然の力に追いつかないということか。

 あるいは、平和記念資料館の展示。もう40年も前のことだが、子どもの頃入館した時の衝撃は忘れられない。熱でひんまがった石、時計。両腕の焼けただれてむけ落ちた皮膚をぶら下げるようにして歩く人々。いや体中の皮が焼けただれてぶら下がっている姿。それらは確かに、原爆という人類がなした恐るべき愚挙の、むごく悲惨な結果を、見るものに告発してやまなかった。

 これは、あくまで個人的な感想と断っておかねばならないが、現在の展示は、なぜか40年ほど前に見た衝迫力とでもいうべきものが、薄まっているように感じる。何十万人もの人が命を奪われ、後遺症に苦しめられたことが、果たしてあそこで写真を撮っている外国人に伝わるのだろうか。あの外国人さんは、おそらく戦争に反対し、核兵器に反対する信条をもち、それを確認するためにヒロシマを訪れたのだろう。もちろん彼らは記念館に入って、その信念をより強固にするにちがいない。しかし、それは、まさにここで、全身の皮膚がただれ落ちて死んでいった人、「熱いよう、熱いよう」とうめきながら川に飛び込んで亡くなっていった無数の人々の痛みを、少なくともある程度の直接性をもって(むろんまったく直接には経験できないのだから)経験した結果ではないような気がする。

 十万人を越える人々が犠牲になった事実、核兵器が人体に深刻な後遺症をもたらす事実、むしろ彼らは、原爆ドームの写真を撮り、記念館を見学して、論理的にそのことを了解するのではないか。目の前に立ち現れているものの生の衝迫力ではなく……。

 とすれば、そこで希求されているのは論理的帰結としての平和である。ロジックとしての平和である。ロジックは、往々にして政治に堕する。そのとき、思想は抽象化して力を失うのではないか。これも歳月のなせるわざなのだろうか。
 最終的に力を持つのは、たとえ自然の力で小さくなったとしても、原爆ドームの瓦礫や鉄骨そのもののはずである。なぜなら、今でも、あそこの瓦礫や鉄骨だけは直接に被爆した分子でできているのだから。

 私は、原爆ドームと広島市民球場を結ぶ線こそ、広島という地方都市の「聖なる線」だと主張してきた(鈴木博之『日本の〈地霊〉』を参考にしている)。だからこそ、新球場は移転ではなく、現在地での建て替えでなければならない。そうしないと、被爆都市ヒロシマのアイデンティティは失われると主張してきた。原爆ドームの瓦礫や鉄骨に被爆の分子が直接刻印されているように、市民球場もまた、被爆で潰滅した市民のための球団として歴史を刻んできた直接の証なのだから。

 しかし、現実には移転する。広島には、来年、新球場ができる。現在の市民球場の跡地には、何かモニュメントのようなものをつくる構想と聞く。きっと、新しく立派な何かができるに違いない。その時、原爆ドームはどのように見えるだろうか。新しく立派な何かの向かい側で、いよいよ沈降し、褪色するのではあるまいか。
 お気づきのことと思うが、どうしても原爆ドームが広島カープに重なってしまうのである。大エースが去り、4番打者が去り、中田翔のような要素がまるで見当たらない。つまり、いきなり球場が超満員になるような機縁もないし、あるいはいきなり優勝争いでもしかねない可能性も見えない。

 原爆ドームが縮んでいくように見えるのは、私が広島を遠く離れているからである。広島に住んでいたら気付くまい。カープもまた小さくなっていることに、広島に住んでいたら、気付かないのかもしれない。
 だが、あえていえば、気付かなければいけないのではないか。

 去年、市民球場が盛り上がったのは、前田智徳の2000本安打の時である。一昨年、市民球場が沸いたのは、あの黒田博樹に残留を求める大旗が翻った試合である。その前に広島が盛り上がったのは、嶋重宣がいきなりブレークして“赤ゴジラ”と異名をとった時である。

 つまり、人々は、全く関心を失ってしまったわけではない。潜在的な関心は持ち続けている。中田のような何かがあれば、その関心は再び顕在化する。つまり、気付くことができるはずなのである。新球場などではなく、そこからが球団再生のスタートのはずである。

上田哲之(うえだてつゆき)プロフィール
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。
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