12月15日、MLBが激震に見舞われた。
 元上院議員のジョージ・ミッチェル氏が責任者となってまとめられた禁止薬物調査「ミッチェル・レポート」がついに公開。その中で、約90名ものメジャーリーガーたちが過去の禁止薬物使用者として公表されたのだ。
 ロジャー・クレメンス、アンディ・ペティート、ミゲル・テハダ、エリック・ガニエ……そこには多くのビッグネームも含まれていたため、アメリカでも当然のごとく絶大な反響と興味を呼んでいる。
(写真:ロジャー・クレメンス(写真はアストロズ時代のもの)らのスキャンダルは全米を騒然とさせた)
 名指しされた選手たちの反応は様々である。「医療目的」「1度切りの過ち」といった注釈を付けながらも、ペティート、ブライアン・ロバーツ(オリオールズ)らはあっさりと使用事実を確認。一方で、クレメンスや元スターのデビッド・ジャスティスらは断固として疑惑を否定している。

 それぞれの対応についての議論はまた別の機会にしたい。ただいずれにしても、レポート発表時にミッチェルが危惧した通り、現時点での話題が公表された選手の名前に集中してしまっている感は否めない。薬物使用防止への建設的な展望を促進するのが目的だったにも関わらず、「やったのは誰か」とゴシップ的な話題ばかりになってしまっているのだ。
 これに際し、基本的に「薬物売買仲介者の証言」という根拠だけで使用者を名指ししたミッチェルを非難する声もある。
 今回発表された約90名がステロイド使用者の「氷山の一角」に過ぎないことはもう明らか。そんな中で、一部の人間だけを摘発するのは確かに不公平にも思える。彼らはいわゆる「スケープゴート」ではないか。
「ミッチェル氏が主張する薬物禁止への断固たる意思表示は正しいが、しかしそれは名前を公表しなくてもできたはず」
 そう語る声は、実際に米国内でも数多いのだ。

(写真:NYの地元紙もミッチェルレポートに大きく紙面を割いている)
 ただ、これはあくまで個人的な意見だが、今回の実名公表にはそれでも非常に大きな意味があったように思う。
 まず背景にあるのは、ミッチェル・レポートの内容がかなり信頼できそうであるという点だ。基本的にレポートの大半はメッツの元球団職員とクレメンスやペティートの元個人トレーナーの証言に基づいたもの。「売人の密告」は根拠として弱く聴こえるかもしれないが、しかし調査はすべて政府の監視下で行なわれたものである。そんな状況下で嘘をでっち上げ、後に世に晒されれば、彼ら自身が監獄送りになってしまう。必然的に、証言の信用度は高いと言える。実際にペティート、ロバーツらが間髪を入れず「有罪」を自白したことで、ミッチェル・レポートの信憑性は少なからず証明されたと言えよう。
 そしてそんな信頼性のあるレポートでビッグスターたちの名前が公表されたことは、何より、リーグ上層部から選手たちに向けての一種の「ステイトメント」となったはずだ。
 これまでのMLBは、薬物に関しては常に玉虫色の見解を取り続けていた感がある。しかし、今後はそうではない。そんな断固たる意思表示が、ここでついに行なわれたのだと筆者は考えている。

(写真:かつてステロイド使用を告白したジェイソン・ジアンビだが、その後も2000万ドル前後の年俸を受け取り続けている)
 クレメンスのような伝説的選手の「汚染」を明らかにすれば、MLBは自身の首を締めてしまうことになる。だが例えそうだとしても、彼らはもう後には引かない。これまで選手たちを守り続けてきた選手会の力ももう及ばない。政府の力を借りてでも、真実、実態を明らかにする。その姿勢を、MLBは遅ればせながらようやく示したのだ。
 もちろん、今後も薬物使用のすべてを表沙汰にすることは不可能である。しかし今回の一連の流れで、これまでに薬物を使用した選手たち、現在使用を考えている選手たちに恐怖感を味合わせることは出来ただろう。私見だが、それがきっかけとなり、今後はスーパースター級の薬物使用は確実に減るだろうと思う。
 ステロイド、HGH、さらにまだ見ぬ新ドラッグへと、選手と薬物テストのイタチごっこは続いていく。だが、一時的には検査をかわせても、いつか、時を遡ってでも、かつての薬物使用が明らかになる日が来る(可能性がある)。その恐れは、すでに富を築き、名声を確立した選手たちに使用を思い止まらせるのには充分でないか。そんな効果があっただけでも、実名公表には意味があったのだ。
 クレメンスらは「スケープゴート」? その通りなのだろう。だがここまで薬物が蔓延した今、生け贄なしには方向転換は無理だった。そして哀れなスケープゴートたちにも、「なぜ自分だけが」と嘆く資格はない。いずれにしても、彼らが周囲を欺いて来た事実に変わりはないからだ。

 だがその一方で、今後に向けた大きな課題は解決されざるまま残っている。
 スター選手の使用が抑止できるとしても、現在のMLBの慣習では、マイナーリーガーやスター以下の選手たちの薬物使用に歯止めを利かせることはまだ難しいだろう。
 いずれ破局が訪れる可能性を考えながらも、生活に必死の2流選手たちは、賭けるような思いで薬物を手に取り続けるはず。なぜかと言えば、例え「嘘つき」の汚名を着せられようと、薬物使用者が依然として金銭的に大きな利益を得続けている事実があるからだ。
 記憶に新しいところでは、過去2年のギレルモ・モタのケースが分かり易い。しばらくリリーフ投手として鳴かず飛ばずだったモタだが、06年後半戦にメッツ移籍後、18試合で防御率1、00と突如開眼。その実績が買われ、オフに2年500万ドルの契約延長を手にした。
 そしてその直後にステロイドで陽性反応を示し、翌年は開幕から50試合の出場停止。復帰後も防御率6、00と散々だった。状況的に、モタの06年の好調はステロイドの恩恵だった可能性が高い。ただそれでも、大きな批判を浴びたものの、モタがたった半年の薬物使用で500 万ドルを手にした事実に変わりはない。彼は名誉を失う代わりに大金を得て、ある意味で目的を果たしたのだ。
 その他にもこういった例は枚挙に暇がない。契約最終年に突如開眼したおかげでエンジェルスと5年5000 万ドル契約を手にし、翌年にHGH購入が発覚したゲイリー・マシューズJRなど、薬物のおかげで一攫千金した選手は近年のMLBにはいくらでも転がっているのだ。

(写真:元MVPのミゲル・テハダもここ数年は成績下降気味。薬物を止めた影響か?)
 今後のMLBの薬物問題では、この部分の改革がポイントとなる。
 薬物使用者が何らかの形で得をし、陰で多くの正直者は表舞台に上がれぬまま球界を去って来た。そんな現状を変えようと思えば、MLBトップだけでなく、各チームの人事に関わるすべての人間の意識改革が必要だ。
 今回のレポート内では、数チームのGMやスカウトが選手たちのステロイド使用を知っていた事実が記載されている。ガニエやポール・ロデュカなどは薬物漬けが承知されながら、それでもすぐ後に大型契約を手にしている。余り注目されていないが、薬物蔓延の最大の原因はこの部分にあると筆者は考える。
 本当にMLBを浄化したいなら、球団側もビジネスだけに走らないチーム作りを心がけなければならない。疑惑のある選手は獲得しない。あるいは、契約の際に規則違反時の罰則を設けても良い。同じように、MLBが球団に厳しい罰則を定めても良いだろう(薬物使用者が出たチームには罰金、ドラフト指名権の剥奪といった具合に)。
 そんなことが可能なのかどうかは分からない。だが、何か抜本的な手を打たなければならない。これまでそれをして来なかったが故に、薬物問題は取り返しのつかない地点まで来てしまったのだから。

 ミッチェル・レポートがMLBに呼び起こした波紋は想像以上に大きかった。短期的には人気面のダメージもあるだろう。
 だが、長期視野で考えれば必ずやこのリーグにとってポジティブな方向に持って行けるはずである。そのためにクレメンスらの名前を出すことは必要だった。そして今回のスキャンダルを本当に意味のあるものにするためには、今後にまだまだ様々な改革が必要になってくる。
 違反者が得をして、正直者が損をする世界を変えるために――。ミッチェル・レポートは始めの一歩に過ぎない。そして私たちにも、違反者の名前にだけでなく、今後のMLBの動向にもこれまで以上に注目する義務がある。


杉浦大介(すぎうら だいすけ)プロフィール
1975年生、東京都出身。大学卒業と同時に渡米し、フリーライターに。体当たりの取材と「優しくわかりやすい文章」がモットー。現在はニューヨーク在住で、MLB、NBA、ボクシング等を題材に執筆活動中。

※杉浦大介オフィシャルサイト Nowhere, now here
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