国外出張に出かける時は出発直前まで憂鬱だ。僕の場合、現地での協力者を除けば、1人での出張が多い。自分で全てをこなさなくてはならない。
(写真:ペルーの首都リマにて)


 1ヶ月を超える出張の場合は、世界一周チケットを使って、南米と欧州の複数の場所で取材することになる。特に南米では取材スケジュールがなかなか確定しないことが多い。それでも、出版社などからすでに経費を受け取っている。失敗するわけにはいかず、責任は重い。

 憂鬱はたいがい出発当日には消え、成田空港を飛び立った時には、今回はどんな面白いことが起こるのだろうとわくわくした気持ちになる。
 ところが2004年3月の出張に限っては、フランクフルト行きのルフトハンザに乗っても心は晴れなかった。

 フランクフルトで飛行機を乗り換えてさらに10数時間。最初の目的地はブラジルのサンパウロだった。その後、パラグアイの首都アスンシオンに向かった。アスンシオンではグアラニというクラブにいる福田健二に話を聞くことになっていた。彼は、鉄骨の錆びた古いスタジアムと荒れたピッチの中でも生き生きとプレーしていた。

 僕がパラグアイに紹介した元横浜FCの要田勇一もアスンシオンの2部のクラブに所属していた。あばらやのようなクラブハウスしかないフェルナンド・デ・ラ・モーラというクラブである。そこで要田は必死でボールを追っていた。
 言葉が分からなくとも、楽々と国境を越えていく、逞しい彼らを眩しく思った。

 アスンシオンの後、僕のチケットはサンパウロに戻って、フランスへ行くことになっていた。目的地はフランスのモンペリエという南部の街。そこにいる元日本代表の広山望に会いに行った。

親しみを感じる男、広山望との出会い

 広山と知り合ったのは、2001年のことだ。
 ペルーの大統領選挙を取材していた時、広山はパラグアイのセロ・ポルテーニョの一員として、南米最強クラブを決めるリベルタドーレス杯のために首都リマを訪れた。
 正直なところ、この時の取材は経費が潤沢とは言えなかった。日系人の歴史があるとは言っても、ペルーは日本のメディアにとっては遠く、企画を持ち込んでもあまりいい顔はされなかった。

 当時、広山は各年代の日本代表にも選ばれており、将来を嘱望される若手選手の一人だった。その広山が突然、パラグアイ行きを決めたと聞いた時は、少々驚いた。彼の知的な印象と、猥雑な南米大陸が結びつかなかったからだ。

 広山はリベルタドーレス杯に出場した初めての日本人だった。広山が来ることが分かり、日本の出版社にメールで連絡を入れると「取材ができるならばお願いしたい」という返事をもらった。彼に会いにいくということは本来の目的でなかったのだ。

 リマで会った彼は、移籍して数ヶ月しか経っていないというのに、かなり上手にスペイン語を話した。ホテルのロビーで僕が話を聞いていると、パラグアイ人の選手たちが次々と挨拶に来た。

 広山は一人一人を僕に紹介してくれた。パラグアイ代表クラスの選手たちは、親しみやすく、気さくだった。そのことを言うと、広山は嬉しそうに頷いた。
「日本にいるとサッカーを仕事だと考えていた。でも、そうじゃないことを改めて思いました」

 彼は日本を離れて、パラグアイ人に混じって、サッカーを楽しんでいるようだった。
「年齢的に最後かなと思って、日本を出てきたんですが、こっちではまだ若手ですね」
 陽の当たる道を歩いてきた広山は23才にして思い切った決断を下した。日本でプレーすれば、数千万円の年俸が保証されたが、それを蹴って、自らの可能性にかけてレンタル移籍を選んだのだ。

(写真:パラグアイの首都アスンシオンにて) 彼は、習志野高校を卒業後、ジェフ市原(現ジェフ千葉)に入った。同時に、千葉大学へ入学。国立大学生のJリーガーとして話題になっていた。ただ、そうした知的な印象に対して、彼は窮屈な思いをしていたのかもしれない。パラグアイでは、恐らく日本にいた時よりも、楽しそうな顔をしていたことだろう。

 僕は1年ほど前に、勤めていた出版社を辞めたばかりだった。出版社で働くことは、金銭的には恵まれていたが、このまま働き続けることに疑問を感じていた。しばしば、自分の足に鎖が巻き付いたように前に進まない夢を見た。

 そして僕は出版社を辞めた。退社はしたものの、知名度も実力もない書き手に優しく手を差し伸べてくれる人間は多くない。ペルーの企画書を持って、出版社を回ったが、いい返事をもらえなかった。一つの雑誌だけが「多少の経費を出すのでとりあえず行ってみれば」と言ってくれたので、日本を出てきたのだ。

 だからだろうか。広山とは年齢もたどってきた道も違うのだが、親しみを感じた。
「今度はパラグアイに会いに行くよ」
「是非、来てください」
 僕は彼との約束を守り、数ヶ月後パラグアイに行った。

 それから僕たちの付き合いは始まった。パラグアイからブラジル、そしてポルトガル、フランス――。僕は彼の移籍する全ての場所に足を運んだ。2003年秋には、その経緯を「此処ではない何処かへ」という単行本にもした。

モンペリエでの再会

 広山がポルトガルのブラガからモンペリエに移籍したのは2003年の夏のことだ。出だしは良かった。名門のボルドーにモンペリエの歴史上で初めて勝ったこともあった。2003年10月の欧州遠征、ジーコは広山を日本代表に招集した。

 ところが――。
 年が明けると、モンペリエでの広山の出場機会は急に減っていた。
 広山とはメールでしばしば連絡を取っていた。彼に限らず、アスリートというのはプレーが上手くいっていない時に、あまり話したがらない。広山は人の悪口はもちろん、愚痴も言わない。全て自分の中に溜めておくタイプの男だ。

 試合に出られない彼との連絡はとぎれがちになっていた。そして僕はブラジル、パラグアイ出張の帰りにフランスに立ち寄ることにした。彼が使われないのは、彼の調子が悪いのか、それとも他の理由があるのか、確かめたいと思ったのだ。

 僕は、パラグアイから再びサンパウロを経由して、パリからTGVで南に下った。
 モンペリエの本拠地『ラ・モッソン』は98年フランスワールドカップで使われた近代的なスタジアムである。収容人数は32500人。簡易的なパーティができるような部屋がスタジアムに併設され、人工芝のグラウンドも備え付けてある。設備の整った、素晴らしいスタジアムだ。

 2003年8月、広山が移籍してすぐ、僕は『ラ・モッソン』でオリンピック・リヨンと対戦した試合を見ている。綺麗な芝の上で、広山はリヨンのブラジル代表ジュニーニョたちと試合をしていた。『ラ・モッソン』で再び彼の姿を見ることと思っていた。

 ところが、再会した広山がボールを蹴っていたのは、『ラ・モッソン』とはかなりかけ離れた場所だった――。

(後編に続く)

田崎健太(たざき・けんた)
 ノンフィクションライター。1968年3月13日京都市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、出版社に勤務。休職して、サンパウロを中心に南米十三ヶ国を踏破。復職後、文筆業に入る。現在、携帯サイト『二宮清純.com』にて「65億人のフットボール」を好評連載中(毎月5日更新)。08年3月11日に待望の新刊本『楽天が巨人に勝つ日―スポーツビジネス下克上―』(学研新書)が発売された。


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