メジャーリーグで通用する条件は何か?
 野茂がアメリカで成功をおさめてからというもの、こういう質問を受けることが多くなった。
「やはり、三振をとれるフォークボールがあるということですか」
「ストレートも150キロは必要ですね?」
「コースいっぱいに決めることのできるコントロールも必要でしょう」
 どれも当たっている。しかし、かりにそのすべてが揃っていたとしても、私がゼネラル・マネジャーだったら、すぐに契約書に金額を書き込むことはしないだろう。
 その選手が、どんなメンタリティの持ち主なのかを慎重に探る。続いてピンチの場面でどんなピッチングをしていたかを関係者に聞いて回る。得点圏での被打率を調べれば、おぼろげながらその選手の輪郭が浮かんでくるだろう。

 野茂が海を渡る時、メジャーで活躍できると思った者は皆無に等しかった。
「なぁに、プレッシャーに押し潰されてすぐに帰ってくるさ」
 と、シニカルに言い放った評論家もいた。
 彼と仲が良かったからという理由からではなく、私は100パーセント成功すると思っていた。
 あるテレビ番組で「15勝も不可能ではないと思います」と発言すると「メジャーリーグはそんなにあまくありませんよ」と、ある老ジャーナリストに言い返された。
 私とて、最初から、そう自信を持って言い切れる根拠があったわけではない。少なくとも、そのシーンを目のあたりにするまでは。

 アメリカ行きが正式に決定し、野茂と私はあるテレビ番組に出演した。
 ひとしきり、野球の話をしたあとで、アナウンサーが訊いた。
「英語が話せなくて大丈夫ですか?」
 顔色ひとつかえずに野茂は言い返した。
「いや、僕はアメリカに英語を覚えにいくわけじゃないんです。野球をやりにいくんです」
「じゃあ、不安は?」
「いえ、希望はあっても不安はありません」
 決然たる口調だった。
 野茂の成功を確信した瞬間でもあった。

 忘れられないシーンがある。
 一年目の夏、場所はドジャー・スタジアムのロッカールーム。
 野茂の“隣人”はドミニカ人のラウル・モンデシー。普段は陽気なドミニカンだが、その日、チャンスで凡退でもしようものなら、誰も手が付けられないほど荒れ狂うのだ。

 ある日のことだ。試合が終わると、私はいつものようにロッカールームに野茂を訪ねた。
 と、いきなりガシャーン! ガチャーン!
 例によって、モンデシーが大荒れしているのだ。どうやら、いつも以上に腹のムシがおさまらないらしい。
 モンデシーはタトゥの入ったマイク・タイソンなみの二の腕に力を込め、バットで自らのロッカーを破壊していた。

「逃げようぜ……」
 モンデシーの隣で静かにファンレターを読みふける野茂に、私はそう目配せした。
 しかし、野茂は少しも、その場を離れようとはしない。そればかりか、逆に「ここにいるべきだ!」と、目で合図を送ってよこした。
 折れたバットの破片が私の胸に突き刺さった。スーッと鮮血が流れた。血の気が引く、とはこういうことを言うのだろう。生きた心地がしなかった。
 それでも、野茂は動かない。ファンレターに視線を落としたまま、身じろぎもしない。

 おそらくは3分から5分程度の出来事なのだろうが、私には3時間にも5時間にも感じられた。
 気がつくとモンデシーは息をゼエゼエさせながら、小さくうずくまっていた。
「なぜ、逃げようとしなかったの?」
 と、あとで問うと、野茂は平然とした面持ちでこう答えた。
「あそこで逃げたら、僕はずっとアイツにナメられる。そういうのってすごくイヤでしょう」
 その時の野茂の声は今でも耳に残っている。

 現在、メジャーリーグではヤンキースの伊良部秀輝、エンゼルスの長谷川滋利、メッツの吉井理人、タイガースの木田優夫、マリナーズの鈴木誠と5人の日本人ピッチャーがプレーしている。
 おそらく、来年か再来年には、日本人初の野手としてイチローの雄姿がメジャーリーグのグラウンドで見られることだろう。彼の“振り子打法”は野茂の“トルネード投法”同様のセンセーションを巻き起こすはずである。

 思えば、日本人が戦力として認められるようになったのも、パイオニアである野茂が道を切り開いたがゆえである。
「多少なりとも、あとに続く日本人選手に道筋をつけられたという自負はある。もちろん、僕自身、再びメジャーに挑む。もう一度、メジャーに復帰できれば、今後、僕と同じ立場に立つ日本人への、よき励みになるはず」

 5月10日、ブリュワーズのユニホームに袖を通した野茂は再起戦を飾り、メジャー通算50勝に花を添えた。トルネード伝説、第2幕の始まりである。

(おわり)

<この原稿は1999年10月発行『1ミリの大河』(マガジンハウス)に掲載されたものです>
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