誰よりも速いボールを投げたい。
 誰よりもボールを遠くへ飛ばしたい。
 野球を始めた少年が、最初に思うことは、このどちらかである。
 前者の方に魅力を感じた少年はピッチャーへの道を選び、やがてエースとして甲子園を目指し、その先のプロ野球のマウンドに夢をはせる。一方、後者の方により深い魅力を感じた少年は、ホームランに飽くなき憧れを抱き続ける。
 これから紹介する五十嵐亮太というピッチャーは少年時代、誰よりも速いボールを投げることができた。快速球への夢は高校に入ってさらにふくらみ、3年の夏には144キロをマークして、ネット裏に陣取っていたスカウトを仰天させた。

 高校卒業と同時にヤクルトスワローズに入団した五十嵐は2年目の99年、153キロをマークする。スーパールーキー松坂大輔がデビュー戦でいきなり155キロをマークして野球ファンの度肝を抜いたことは記憶に新しいが、150キロをこえるボールを投げられる者は、プロ野球広しといえどもほんの数人しかいない。

 まだ20歳。荒削りだが、いや荒削りであるがゆえに彼の将来は希望にみちている。
 喜ばしいことに、私たちは底知れない容量を誇る彼の素質の、ほんの断片を垣間見ているに過ぎないのである。

 小学3年の時の出来事。
 季節は冬。
 その頃、五十嵐少年は北海道の札幌に住んでいた。12月を過ぎると積雪は少年の背丈を軽く抜き去った。

 ある日のことだ。五十嵐少年は仲間たちにまじって雪合戦に興じていた。仲間のひとりに後ろから雪つぶてをぶつけられた。
「こらっ、何だよ!」
 怒った五十嵐少年は、目の前の雪を拾い、掌の中で固めると、力を込めて投げ返した。
 運悪く、雪つぶては相手の眼鏡に命中した。ビシッと鈍い音を発して、相手の少年はその場にうずくまった。

 その夜、五十嵐少年は母親の則子さんにともなわれて相手の家に行き、昼間の出来事を謝罪した。ここまでなら、よくある話だ。
「眼鏡を弁償させてください」
 と申し出た則子さんは、次の瞬間、言葉を失ってしまう。目の前に差し出された眼鏡は原形を留めないほどに変形してしまっていたからである。

 振り返って則子さんは言う。
「眼鏡が割れたとは聞いていたんですが、フレームまで曲がってしまっていたんです。結構、距離があったはずなのに、亮太の投げた雪つぶてが速過ぎてよけ切れなかったんでしょう。先生も驚いていました」

 五十嵐が野球を始めたのは小学1年の時だった。町内の軟式野球クラブにおじがいた関係で、小学生になると同時にクラブのユニフォームに袖を通した。
「オマエ、肩が強そうだな……」
 ただ、それだけの理由でマウンドに上げられた。コントロールは目茶苦茶だったが、何球かに一球、ハッとするボールがキャッチャーミットに突き刺さった。

 再び母・則子さんの回想。
「その時の監督さんがよく言っていました。“どこへ投げるかわからないけれど、時々6年生でも投げないようなボールを投げる”と。それだけ、肩が強かったということでしょう」

 小学4年の夏、父・豊さんの仕事の都合で千葉市に引っ越した。野球は地元のシニア・リーグに入って続けた。
 マウンドに上がりたかったが、他にいいピッチャーがいたため、ファーストに回された。千葉県といえば、習志野、市立船橋、拓大紅陵、銚子商をはじめ全国レベルの強豪校が目白押しだが、五十嵐に誘いの声はかからなかった。

 進学先は敬愛学園という全くの無名校を選んだ。もちろん、甲子園出場経験は一度もなし。この時点で、五十嵐の甲子園への道は事実上、閉ざされてしまう。
 五十嵐にとって幸運だったのは青年監督・古橋富洋との出会いである。五十嵐のピッチャーとしての素質に目をつけた古橋は、五十嵐を1年生からマウンドに上げた。いずれ頭角を現すだろうとの確信が古橋にはあった。

 振り返って古橋は言う。
「体は細かったんですが、バネのようなものを感じました。板と弓の違いといったら、わかってもらえるでしょうか。体はしならせておいて、パチーンとボールを離すような弾力性のあるピッチングが彼はできるんです。
 それに肩の強さも魅力でした。高校生レベルだと、肩が強いといわれる子でも90メートルくらいがせいぜいなのですが、彼は入ったばかりの頃から100メートル近く投げていました。やがて110メートルまで遠投の距離は伸びましたよ。プロでも110メートル投げられる選手は、そうはいません。ピッチャーとしての将来性を感じました」

 ひ弱だった下半身を鍛えるため、練習後、五十嵐は家まで走って帰った。距離にして約10キロ。下半身の成長に比例するように、スピードも速くなっていった。
 高校2年の春頃から、試合になるとネット裏にプロ野球のスカウトが姿を見せるようになった。体はヒョロッとしていたが、ストレートは130キロ台後半をマークするようになっていた。

(後編につづく)

<この原稿は『家庭画報』2000年2月号に掲載されたものです>
◎バックナンバーはこちらから