名手と謳われ、長嶋茂雄氏、王貞治氏(現・福岡ソフトバンク監督)らとともに「日本シリーズ9連覇」に大きく貢献した土井正三氏。すい臓がんを患い、現在は自宅での療養を余儀なくされているが、野球への情熱は未だ薄らいではいない。その土井氏に当サイト編集長・二宮清純がインタビューを行なった。その一部を公開する。
二宮: 当時の巨人は常勝軍団でメンバーも固定されていましたが、ベンチでは結構ケンカとかしていたようですね。
 
土井: みんな、本当によくケンカをしましたよ。互いに嫌いでしたからね。名前は言えないけど、自分がスタメンから外れて、代わりに打席に立った選手に対して「このやろー、打つなよ! ピッチャー、こいつになんか打たれるなよ!」なんてことを念じてた人もいましたからね。

二宮: 必ずしもみんなが仲良し軍団ではなかったと。

土井: そうです。僕なんか、黒江透修さんが好きではなかった。でも、いざ試合になったら、好き嫌いは一切抜きでしたよ。例えば、セカンドゴロでダブルプレーを狙わなければいけない場面で黒江さんが捕りにくいところに放るなんてことは絶対になかった。そんなことをしたら、ファンは僕が下手だって思うわけですからね。それに当時のチームプレーというのは、相手が次の所へ一番投げやすいボールを放るというのが鉄則でしたから。1秒でも0.5秒でも速く転送できるような所へボールを放らなければいけなかったんです。僕なんかは「人から下手だと思われたくない」っていうプライドでやってましたよ。

二宮: ところで、1969年の阪急との日本シリーズでは土井さんがホームを踏んだか踏まないかで大もめにもめました。

土井: あれには、3つのミスがあったんです。当時の野球は一、三塁の場面でも自動的にランナーが走ることになっていた。だからバッターの長嶋さんが2−3のカウントになったので、一塁ランナーの王さんが走ったんです。ところが、阪急は二塁で王さんを刺さなかった。これが第1のミスです。あの時、巨人は3点差で負けていたわけですから、僕がホームに返っても、王さんを殺していれば二死ランナーなしになっていました。しかも、阪急のピッチャー・宮本幸信は調子が良くて巨人のバッターはなかなか打ち崩すことができなかったですからね。もし、あの場面で王さんが殺されていたら、まだ試合は中盤でしたが、ひょっとしたら3−1で逃げ切れられていたかもしれません。

 2つ目は3点負けている状態で僕が走ったことです。例えば、スタートだけ切ってカットさせといて、三塁に戻っていれば一死二、三塁にできたわけですから。3つ目のミスは、阪急のバッテリーがあれだけリズムよく組み立てができていたのに、キャッチャーの岡村浩二さんが審判を殴って退場になってしまったことです。 

 とにかく、僕は未だにスパイクでホームベースのゴムを触った感触を覚えています。自分で言うのもなんだけど、その頃はものすごく身が軽くて反射神経がよかったんです。シリーズ前にクロスプレーになった場合は顔を目がけてスパイク上げるしかない、あるいは体当たりするしかないという話があった。ただ、僕なんかが体当たりしても飛ばされちゃうだけ。だから走りながら、「このまま突っ込んだらブロックされて足を折られる」と考えていたんです。そしたら、セカンドからの送球がハーフバンドになってキャッチャーの腰がフッと浮いたんです。その時に股間のところにすき間ができたのが見えた。そのすき間からバッとホームを踏んで自分から受身みたいなかたちで行ったわけです。
 岡村さんにしてみれば、完全にブロックして僕を弾き飛ばしたという自信があったんでしょう。未だに岡村さんも監督だった西本幸雄さんも「あれはアウトでいいんだ」って言いますよ。

二宮: 1972年の阪急との日本シリーズでは堀内恒夫さんがリリーフしたときに素晴らしい守備がありました。

土井: ゲッツーですね。無死一、二塁の場面でバッターは岡田幸喜。好投していた関本四十四に代えて堀内恒夫をリリーフに上げた時、牧野茂さんがどういうサインでいくかってマウンドに来たんです。最初は僕がセカンドベースをちょっと牽制しながらファーストへ行って、黒江さんがランナーの後ろからサードへ走って、長嶋さんと王さんが突っ込んで、それでサードで殺すっていうことで初球からいこうかって話だったんです。でも、僕が「西本さんの性格からして送ることは絶対にない」って言ったんです。黒江さんも同じ意見だった。当時は毎年、セ・パ両リーグの優勝監督とMVPの選手がヨーロッパに3週間ほど行ってました。それで前年、MVPだった黒江さんは西本さんたちとヨーロッパに行ってるんですよ。その時の印象で西本さんは相当強気な人だと思ったらしいんです。それで僕と黒江さんで「ここは絶対にバントシフトなしでいこう」と強く押したんです。

 案の定、岡田さんはバントの構えからバスターでカーンと打ってきました。その打球を黒江さんがジャンプ一番で捕ったときには僕はもう既に二塁ベースに入っていましたよ。普通だったら左中間抜かれて2点入っていたでしょうね。
試合後、帰りのバスの中で川上さんが「ホリ、あそこをゲッツーで逃れるなんて、お前は運のいいやっちゃ」って言ったんです。そしたら堀内が「日頃一生懸命やっていたら、神様が助けてくれるんだ」って言ったんですよ。彼の口からそんな言葉が出るとは思わなかったから、みんな大笑いでしたよ(笑)。
 僕はあの時本当の意味で「黒江さんと二遊間を組めたな」と思いましたね。

(おわり)

<現在発売中の『月刊現代』(講談社)には闘病生活やオリックス監督時代のイチローについてなど、土井正三さんのインタビューの模様が掲載されています。こちらもどうぞお楽しみください。>
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