それはひとつの時代の終わりを告げる象徴的なシーンだった。
 さる10月7日、本拠地・神宮球場で東京ヤクルトの古田敦也兼任監督が現役に別れを告げた。試合後、古田は、まるで優勝監督のように5度も宙を舞った。
 対戦相手の広島マーティ・ブラウン監督は、古田の最後の打席で、粋な演出をした。同期入団で、同じく今季限りでユニホームを脱ぐ佐々岡真司をマウンドに送ったのだ。

 実はこれには裏があり、佐々岡がブラウン監督に古田との最後の対決を熱望した模様。
 古田は佐々岡の4球目のストレートをジャストミートしたが、ショートゴロに倒れた。
「全部真っすぐを真ん中に投げるつもりだったけど、球が遅すぎた。すごくいい思い出になりました」
 佐々岡は“花道対決”を感慨深げにそう振り返った。

 古田と佐々岡は同じ1989年のドラフト指名組である。この年のドラフトはまれに見る当たり年で、1位指名は佐々岡のほかにメジャーリーグのパイオニアである野茂英雄(新日鉄堺−近鉄)、「大魔神」の呼び名で他球団から恐れられた佐々木主浩(東北福祉大−大洋)、豪球クローザーの与田剛(NTT東京−中日)、初年度にいきなり10勝をマークした酒井光次郎(近大−日本ハム)、同じく10勝を挙げた西村龍次(ヤマハ−ヤクルト)、貴重な中継ぎで活躍した葛西稔(法大−阪神)、“魔球”シンカーを操った潮崎哲也(松下電器−西武)らがいた。ちなみに古田は2位指名だった。

 佐々岡は1年目からカープのエース級として活躍し、13勝(11敗)17セーブを挙げた。先発に抑えと大車輪の奮闘ぶりだった。
 普通、これだけの成績を残せば新人王当確だが、野球人生で一度しか獲れないタイトルは、クローザーとして4勝(5敗)31セーブを挙げた与田にさらわれた。彼にはその代わり「努力賞」が贈られた。

 彼らがルーキーだった90年のシーズン、こんな会話がネット裏ではささやかれたものだ。
「プロ野球界を見渡して、最も速いストレートを投げるのが与田。フォークの落差なら野茂、スライダーの切れなら佐々岡、シンカーの鋭さなら潮崎がナンバーワンかな。皆、ルーキーじゃないか」
 彼らは皆、88年のソウル五輪日本代表組か、元候補選手である。当時、世界最強だったキューバに勝つためには、「ピッチャーは150キロ前後のストレートとオンリーワンのウイニングショットを持っていることが前提条件」とされていた。それゆえレベルの高いピッチャーが次から次へと育ったのである。

 佐々岡は18年間のプロ生活で通算138勝(153敗)106セーブを記録した。ちなみに過去に先発100勝100セーブ以上をあげたピッチャーは江夏豊しかいない。赤ヘル一筋の偉大なピッチャーだった。

<この原稿は07年10月28日号『サンデー毎日』に掲載されたものです>

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