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カラダよろこぶ酸素水Life(第2火曜更新) : 第2回 中村真衣(シドニー五輪女子背泳ぎ銀メダリスト)「悔いなき水泳人生」
投稿日時: 2009-06-09 00:00:00

 アスリートにとって「酸素」と「水」は必要不可欠である。しかし、現代社会はさまざまな要因で「酸素」が不足がちだ。そんな中、「酸素」と「水」をコラボレーションさせた株式会社ラクデスの「高濃度酸素水」が今、注目を集めている。業界最高レベルの酸素含有量80〜120ppmを実現した “スーパー酸素水”を各競技で活躍するアスリートに試してもらった。


 水と触れ合い、共存し、そして挑んでいるのが競泳選手である。生活の一部が水中というだけあって、水に対する意識は高い。4歳から水泳を始め、長年、世界の舞台で活躍してきた中村真衣もその一人だ。2度のオリンピックに出場するなど、トップスイマーとしてあり続けるために彼女を支えてきた要素の一つに水分摂取がある。
「1回の練習で少なくても500ミリリットルは飲むように指導されていました。水の中で動いているので、喉もほとんど渇きませんし、あまり自分では感じないのですが、やはり2時間も3時間も練習していると、それだけの量の汗が出ているんです。ですから、それをちゃんと補給する必要があります。陸での競技者と違って、汗をかいているという自覚がないからこそ、自分で気をつけて飲むようにしなければいけないんです」
 常に水中で激しい運動を行なっているスイマーだからこそ、水分摂取は何より重要なのだと中村は言う。実力や努力はもちろん、こうしたフィジカルに対する高い自己管理能力も相まって、中村はオリンピックメダリストという栄光を掴んだ――。

 0.3秒届かなかった金メダル

 2000年9月18日、シドニー五輪。女子背泳ぎ100メートル決勝。
 この種目としては初の金メダルを期待された中村は、「Mai Nakamura」のコールが会場全体に鳴り響くと、大観衆に向かって笑顔で応えた。だが、その笑顔とは裏腹に実は心臓が重圧で押し潰されそうになるのを必死に耐えていた。
「あまりの緊張に予選前日は全く眠れませんでした。22時には布団に入ったのに、3時くらいまで眠れなかった。ようやく寝れたと思ったら、30分くらいしか経っていなかったり……。結局、1、2時間くらいしか眠れなかったんです」

 予選当日、今度はご飯が喉を通らなかった。通常、レース前にはお弁当を食べるというのに、その時はおにぎり1個さえも食べることができなかった。「こんなんでいい結果なんか残せるはずがない……」。大きな不安が中村を襲った。
 そんな彼女を救ってくれたのがサポートしてきてくれた栄養士の言葉だった。
「眠れなくても、ゆっくりと横になっていれば体は十分に休めているんだから、大丈夫。あとはこれまでやってきたことを信じて泳ぎなさい」
 決勝前日に行なわれた予選、準決勝をそれぞれ1位、2位で通過し、中村は危なげなく決勝進出を決めた。それほど疲れを感じることもなく、タイムも悪くなかった。「調子は悪くないな」。中村は自分の泳ぎに対して手応えを感じていた。それでも決勝で緊張感はピークに達し、彼女はレース前のことをほとんど覚えていないという。

 決勝は5コースに入った。隣の4コースには準決勝1位で通過したディアヌ・モカヌ(ルーマニア)。大会前までは、ほとんど無名の16歳の新鋭だった。
 スタートの合図が鳴ると同時に、中村は得意のバサロで勢いよく飛び出した。8人中、最後に水面上に上がってきた中村は予定通りトップに立った。前半に強い彼女は、そのままトップの位置をキープしたまま、50メートルのターン。体半分以上のリードを奪った。悲願の金メダルはもうすぐそこにあった。
「泳いでいる時は、自分がトップにいることも知らなかった。私の持ち味は前半。とにかくいけるところまでいって、あとは運に任せるだけ。隣の選手がどうかなんて、全く見ていませんでした」

 残り25メートルを過ぎると、後続の選手が中村に迫ってきた。あと20メートル、15メートル、10メートル……徐々に中村との差が縮まっていく。残り5メートルのところで4コースのモカヌが中村に追いついた。2人のデットヒートに会場のボルテージもヒートアップしていった。
 中村は残った力を振り絞り、必死にゴール板を突いた。1分0秒55。自身が持っていた日本記録(当時)を上回るベストタイムだった。しかし、電光掲示板の一番上に彼女の名前はなかった。0.3秒速く、モカヌの手がゴール板に触れていた。
「悔しかった。タイムよりも、やっぱり金メダルが欲しかった。4年に一度の勲章ですから」
 レース後、育ての親である竹村吉昭コーチに会うや否や、中村は「ごめんなさい」と謝った。中村の大学進学とともに新潟から東京に転勤し、全てを自分のために費やしてくれた恩師に申し訳ない気持ちで一杯だった。

 川口に見た真のアスリートの姿

 4位で終わったアトランタ五輪から目指してきた金メダル。またも果たせなかった夢を中村はどうしても諦めることはできなかった。同年代の選手たちの多くが、大学卒業と同時に現役引退や休養する中、中村は迷わず4年後のアテネを目指すことを決意した。シドニー五輪から1年後、大学を卒業した中村は故郷の新潟へ戻り、竹村コーチと二人三脚での競技生活をスタートさせた。

 だが、彼女がオリンピックの舞台に立つ日が再び訪れることはなかった。アテネ五輪の選考会を兼ねた2004年4月の日本選手権、中村は予選を1位、準決勝を3位で通過し、決勝に進出した。しかし、決勝では得意の前半で遅れを取り、自ら持つ日本記録に1秒遅れての3位。アテネ行きの切符が彼女の手からスルリとこぼれ落ちた。

「日本選手権が終わってからは、もう誰とも会いたくない、話したくないで、新潟に戻らずに東京の友人の家にいたんです。自分の存在が嫌で嫌で、涙が止まらなかった。時間が解決してくれるかと思ったけど、ただ毎日時間が過ぎるばかりで、心の傷は全く癒されませんでした」

 水泳をやってきたこと、シドニーでメダルを取ったこと、アテネを目指したこと……これまで自分がやってきたこと全てに後悔していた。そして、もう二度とプールを見たくない、水泳仲間にも会いたくないと思うほど、水泳が嫌いになっていた。

 そんな彼女を救ったのは、ある一人のサッカー選手だった。当時、メディアはどれもオリンピックの報道で賑わっていた。立ち直れずにいた中村は、新聞もテレビも見ず、ただボーッとする毎日を送っていた。だが、偶然目にしたテレビ番組で耳にした言葉が中村の心に突き刺さった。

「真のアスリートの負けは、戦いをやめることだ」
 長年、日本代表のゴールを守ってきた川口能活の言葉だった。川口はアトランタ五輪の活躍によって日本代表の正ゴールキーパーの座をつかみ、日本が初めて世界の舞台に立った1998年フランスW杯では全試合に出場した。しかし、自国で開催された02年の日韓W杯ではレギュラーの座を奪われ、一度もピッチに立つことはできなかった。海外移籍によって試合出場機会が減り、試合勘が鈍ったことを要因に挙げる声も少なくなかった。だが、川口はW杯後もあえて海外での孤独な戦いに挑んだ。そして04年のアジア杯でファインセーブを連発し、2大会連続での優勝に大きく貢献。苦しみから這い上がった川口は、完全復活を果たしていた。

「栄光と挫折」――川口の境遇に中村は今の自分を重ねていた。ふと気が付くと、テレビを食い入るように見ている自分がいた。
「川口選手の言葉を聞いて、なんだか自分のことを言われているような気がしました。ずっと自分はアスリートだと思って頑張ってきたのに、最後に相手にも負けて自分にも負けてしまったんだなと思ったら、すごく悔しかった。オリンピックの代表にはなれないけど、今の自分には勝てるんじゃないかなって思ったんです」

 引退への花道

 自らの水泳人生を否定したままでは終わらせたくない――中村はもう一度プールサイドに戻ることを決心した。
「今度は自分のために、楽しく泳ごう」
 悔しい敗戦から約半年後、ようやく自分を取り戻した中村は、故郷へと戻り恩師に自分の気持ちを打ち明けた。ところが、竹村コーチは賛成しなかった。
「ここでやめとけ。このままやっても辛いだけだ」
 そう言って、現役引退を促した。だが、中村の気持ちが揺らぐことはなかった。

 4歳からスイミングスクールに通い始めた中村は、小学6年の頃には中学生、高校生に一人交じって強化選手としてトップクラスに入った。一気に練習量が増え、友人と遊べないことに不満が募り、本気で水泳を辞めようとしたこともある。それでも泳ぐたびに記録が更新する快感を覚えると、水泳にのめりこんでいった。中学3年で日本の頂点に立ち、初の代表入り。世界を相手に戦い、高校2年でオリンピック出場を果たした。そして大学入学後、初めて襲われたスランプを乗り越え、シドニーでの銀メダル――。中村は、人生そのものと言ってもいい水泳をどうしてもこのまま終えることはできなかった。

「もう一度自分のために楽しく泳ぎたいんです」
 そう言って一歩も引かない愛弟子の決意を、竹村コーチも最後には受け入れてくれた。シドニー五輪の熱狂からようやく落ち着きを取り戻しつつあった10月、中村はトレーニングを再開した。しかし、中越地震、肩の故障とアクシデントが次々と襲いかかった。心が折れそうになったこともあったが、それでも中村は泳ぎ続けた。

 05年の日本選手権、50メートルで優勝を遂げ、再び代表として世界の舞台へ。翌年には50メートル、100メートルともに日本新記録をマークした。同年の日本選手権、再び50メートルで優勝した中村は、翌年3月の世界選手権への出場を決めた。北京五輪まであと1年――だが、この時中村は密かに引退の決意を固めていた。

「オリンピックを目指す気持ちはなかったんですよ。故障もあったし、そこまでの覚悟はなかった。楽しいで戦えるほど、甘い世界ではないですからね。それよりも世界選手権に2度も出場できるなんて、ある意味、奇跡でした。自分の水泳人生に満足していたんです。だから、今が引退の時だなと」
 2007年3月29日、背泳ぎ50メートル決勝に臨んだ中村は7位に終わった。しかし、彼女の心は清々しさで一杯だった。
「アテネで水泳を嫌いなまま辞めなくて本当によかった」
 やり尽くしたという達成感に包まれながら、中村は笑顔でプールサイドを去って行った。

 高まる水への意識

(写真:全国の子どもたちと触れ合っている)
 引退後、水泳教室やイベントで多忙な日々を送っている中村。その中で子どもたちの水への意識が高いことを改めて感じている。
「私が高校生の頃までは、まだ水分補給についてうるさく言われなかったんです。練習の前後に体重を計るんですけど、女の子は太るのが嫌だって言って飲まなかったくらい。でも、今は違いますね。水泳教室に行っても、小学生の子がちゃんと自分で用意してくるんですよ。私が子どもだった頃とは随分、水への意識が変わっていることを実感しています」

 中村自身が水分摂取の重要性を知ったのは中央大学に入学してからのこと。トレーニング中の補給はもちろん、スポーツドリンクよりも水を好んで飲んでいた中村は、自ら購入する際にも品質の良さを気にするようになったという。そんな彼女にも水道水の30倍の溶存酸素濃度を有するラクデスの「有酸素生活」を試飲してもらった。
「重いっていうのかな。味があるっていうのかな。それこそスーッと入っていくんですけど、市販された水よりも濃いという感じがしました。
 水はやっぱり直に体に入れるものですから、みんないいものを求めますよね。私が子どもの頃は普通に水道水を飲んでいたけど、大学で東京に住むようになってからは水を買うようになりました。卒業後は実家の方に戻りましたが、やっぱり水道水は飲みません。今も市販の水を買って飲んでるんですけど、『有酸素生活』はやっぱり濃さが違いますね」

 今、中村は全国を飛びまわり、水泳の普及活動に勤しんでいる。子どもたちと接する機会も数多い中、中村が大事にしていることは何なのか。
「子どもたちが何かを感じてくれればいいと思っているんです。例えば30人の水泳教室をやって、1人でも2人でも“水泳って楽しいな”“自分もオリンピックの選手になりたい”って思ってくれたら嬉しい。どんなふうに感じるかは、それぞれ違うわけですから、私から“あぁしてほしい、こうしてほしい”とは思っていません」

「もはや水泳は自分の一部」という中村。水泳があったからこそ、これまで多くの人と出会い、貴重な経験をし、そして今の自分がある。そして、これからも――。水と人との触れ合いこそが、中村真衣の人生だ。

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中村真衣(なかむら・まい)プロフィール>
1979年7月16日、新潟県出身。4歳から水泳を始め、中学3年時に出場した日本選手権では100メートル背泳ぎで優勝。高校2年でアトランタ五輪に出場し、同種目で4位入賞する。2000年シドニー五輪では同種目で銀メダル、400メートルメドレーリレーで銅メダルを獲得した。07年の世界選手権を最後に現役を引退。現在は水泳教室やイベントを通して水泳の普及活動に努めている。

(斎藤寿子)


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