「史上最弱」と言われたチームの躍進は、その年の秋から始まった。県、四国を制した明徳義塾は、明治神宮大会では26年ぶりにベスト4進出を果たした。その理由を、石橋は次のように語っている。
「なぜ勝つことができたのか、自分たちも不思議な気持ちでした。でも、“明徳義塾”という看板を背負っているというプライドは常にありましたね。絶対に負けたくないという気持ちで戦っていました」
ストライプのユニフォームを着ているという誇りが、本番での強さを引き出していた。
石橋良太には歳の離れた2人の兄がいる。幼少時代はサッカーに夢中になっていた石橋だが、2人の兄の影響もあって、小学1年から地元大阪府堺市の軟式野球チーム「長曽根ストロングス」に入った。最初は特に野球が好きだったわけではなかったという。野球が面白いと思い始めたのは小学4年の時。自分がピッチャーとして投げた大阪府の大会で優勝し、それをきっかけに勝つことに快感を覚えたのだ。
2011年秋、石橋良太はそれまで抱いていたモヤモヤ感がなくなっていくのを感じていた。投手として生きる覚悟を決め、気持ちを切り替えて本気で取り組んでいこうと腹を据えたのである。石橋は、高校2年まで内野手として活躍し、甲子園にも出場した。拓殖大学入学後も自らは内野手としてやっていくつもりだった。だが1年春、打率1割台と不振にあえいだ石橋は高校3年時にエースとして活躍したピッチングを買われ、投手に転向した。だが、内心では野手としての道を捨て切れずにいた。そんな中途半端な気持ちを払拭させたのが、中央大学との1部・2部入れ替え戦だった。
「弓道は自分と的との勝負――これに尽きます。すなわち、的に負けるということは自分に負けるということです」。法政大学体育会弓道部監督の藤井俊雄はこう語っていた。その意味で、川田悠平は自分との勝負に勝った。大学3年の4月、川田に再び的中が戻ってきたのだ。「矢数をかけることで、的中する感覚に体が慣れてきました。それがつながったという感じですね」と本人は分析した。スランプを脱した川田はその後、顔面麻痺を患いながらも全国学生弓道選抜大会、全日本学生弓道選手権の優勝に貢献していく。そんな大学3年のシーズンで、川田は「ここ最近で一番悔しい」と振り返る出来事も経験していた。
「高校の部活とは違い、多くの決まりがありましたので、最初は戸惑いました」
川田悠平が法政大学体育会弓道部に入部して、最初にぶつかった試練が「言葉づかい」だった。同部では、年上の人に対してはたとえば「僕」ではなく「自分」、「きのう(昨日)」ではなく「さくじつ」、「今日」ではなく「本日」などと普段とは異なる言い方をしなければならない。「慣れるまでが大変でしたね。ポロッと『僕』と言ってしまって先輩によく叱られました(苦笑)」。この言葉の習得に、川田は時間をずいぶんと要した。








