2002年日韓ワールドカップ決勝トーナメント1回戦、仙台で行われた日本代表とトルコ代表の試合が0対1で終わった瞬間、「あのおっさんがここにいたら、えらい怒っているやろな」と、里内はジーコの顔を思い浮かべていた。
(写真:ジーコはとにかく負けず嫌いである)
1993年4月1日、里内猛は留学先のブラジルから日本に帰国したのも束の間、5日後の6日には、鹿島アントラーズのイタリア遠征に帯同した。ミラノで飛行機を降り、バスに乗り替えて約4時間、アドリア海に面した宿舎に到着した。辺りはマリティマと呼ばれる一角だった。
(写真:互いに厚い信頼を寄せている里内とジーコ)
世界各国、代表選手選考には「どうしてこの選手を選ばないのか」と、必ず不平不満が出るものである。中でも、世界トップクラスのチームが幾つも作ることができるであろう、ブラジルはその傾向が強い。
(写真:テレ・サンターナが監督だったセレソンの中心選手、ソクラテス)
早く一人前のフィジカルコーチになりたい――里内はそればかり考えていた。トレーニングの勉強会があれば足を運び、参考になりそうな本やビデオテープを片っ端から手に入れた。ある時、ヨーロッパにいいビデオがあると聞き、取り寄せてみると日本のビデオデッキでは再生できないPALシステムだった。どうしても見たいので、PALシステムを再生できるマルチシステムのビデオデッキを購入した。ビデオデッキは約30万円――会社員の里内にとっては、痛い出費だった。それでも知識欲の方が勝った。
(写真:CRフラメンゴのスタジアム。老朽化は進んでいるものの、環境は整っていた)
「おいお前、ジーコって知っているか?」
里内は住友金属サッカー部のマネージャーだった平野勝哉から声を掛けられた。
「知っているも何も……」
里内が口ごもったのも無理はない。ジーコが来日する前年の1990年、南米選抜対欧州選抜のチャリティーマッチが国立競技場で行われた。里内は住友金属にいたブラジル人のミルトン・クルスと一緒に見に行き、試合後にロッカールームへ入ることが出来た。試合に出場していた元ブラジル代表のソクラテスと記念撮影していると、目の前をジーコが横切った。「おっ、ジーコだ」。里内は心の中で呟いた。ジーコこと、アルトゥール・アントゥネス・コインブラは彼にとって憧れの選手だった。
(写真:ジーコとオスカーがいた82年W杯ブラジル代表の寄せ書き。オスカーが経営するホテル『オスカー・イン』に飾られいる)








