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野球 : 元ヤンキース・伊良部氏、死去 栄光と挫折のルーツ
投稿日時: 2011-07-29 18:45:39

 ロッテ、阪神やニューヨーク・ヤンキースなどで投手として活躍した伊良部秀輝氏が27日、米ロサンゼルス近郊の自宅で死去した。42歳だった。現地の捜査当局は発見時の状況から自殺とみている。伊良部は2009年に現役復帰し、四国・九州アイランドリーグ(当時)の高知ファイティングドッグスに途中加入後、翌年1月に引退を発表。昨年5月には米国で酒気帯び運転で逮捕されたことが報じられていた。
(写真:メジャーリーグデビュー直後の97年、ニューヨークのホテルにて)

 日本球界に嵐を起こした男が、吹き抜ける突風のように自らの人生に幕を下ろしてしまった。伊良部は88年、香川・尽誠学園からドラフト1位でロッテ入り。94年に最多勝のタイトルを獲得するなど、実働11シーズンで72勝(69敗11S)。93年に当時の日本球界最速となる球速158キロをマークし、清原和博(当時西武)らと名勝負を繰り広げた。

 96年オフにメジャーリーグ挑戦を希望し、騒動の末、翌年ヤンキース入り。98年から2年連続で2ケタ勝利を記録した。その後は故障もあって思うような成績を上げられなかったが、03年に日本に戻り、阪神で復活。13勝をあげて18年ぶりのリーグ優勝に貢献した。だが、翌年は1勝もあげられずに戦力外となり、現役を引退していた。

 その後は米国でうどん店を経営。球界からは距離を置いていたが、09年春、米独立リーグのゴールデン・ベースボール・リーグ、ロングビーチ・アーマダで5年ぶりに現役復帰を果たす。NPB復帰を目指し、同年8月には、阪神時代の後輩でもある藤川球児投手の兄・順一氏がGMを務めていたアイランドリーグの高知に入団した。ところがアイランドリーグでは2試合に先発しただけで、右手親指を痛め、約1カ月半で退団。ケガの回復具合をみてプレーを続ける意向を示していたが、翌年、自身のブログで再び現役引退を表明していた。

 当サイトでは高知退団後の09年9月に執筆した二宮清純のコラムを紹介し、伊良部氏のご冥福を心よりお祈りしたい。

 伊良部秀輝「栄光と挫折のルーツ」

 NPB(日本プロ野球組織)への復帰を目指して四国・九州アイランドリーグ入りした伊良部秀輝が、わずか2試合に登板しただけで退団した。
 突然の退団の理由について、本人は自らのブログでこう綴っている。

<(9月)7日の投球練習の際、右手の親指にしびれるような痛みを感じました。1〜2日様子を見て落ち着くかと思いましたが、なかなか落ち着かなかったので、11日に病院に行って、レントゲン、MRIを撮影しました。その結果、腱鞘炎という診断で、全治3週間とのことでした。
 これから3週間ノースロー調整になると、このチームのスケジュールでは試合に登板することができません。フェニックスリーグでも是非投げたかったのですが、3週間ノースローだとすぐに投球することは出来ず、ゲームで投げられる体を作り直すのにもう3週間から1ヶ月かかってしまいます。そうなるとフェニックスリーグでも登板できないと思います。
 さらにフェニックスリーグに参加するチームはリーグの選抜チームだと聞いていますので、投球できないピッチャーが選ばれてしまうと、周りの選手に迷惑をかけてしまいます。よって、ここは思い切って治療に専念しよう、と思いました。
 まだ自分としては球を投げることが好きなので、適切に治療し、次のステージで投げたいという気持ちを前向きに持っています。今後アメリカで治療し、秋〜冬にかけて腱鞘炎の治り具合を見て、自分の体ともよく相談し、できれば野球を続けていきたいです>

 四国・九州アイランドリーグでの伊良部の成績は次のとおり。
2試合、12イニング、被安打13、被本塁打1、与四死球11、奪三振6、防御率5・25。
「本当に残念」
 そう語るのは、高知ファイティングドッグスの監督、定岡智秋だ。

「本当は3回目の登板は9月5日の予定だったんですが、本人が“太ももを痛めた”というもので、一回飛ばしたんです。その後はテーピングをしながら投げていた。
 そうしているうちに、今度は右手の親指がおかしいと。3週間も戦列を離れれば、(リーグ年間王者を決める9月末からの)チャンピオンシップに間に合いませんからね。それから10月6日にスタートするフェニックスリーグにもね。ここにはセ・パの若手の優秀な選手が集まるので、NPBのスカウトも来るでしょうからね。
 それがかなわないとわかって、テンションも下がったんじゃないかな。ウチの藤川順一GMには“これ以上いるとチームに迷惑がかかるから(契約を)外してくれ”と言ったみたいですよ」

 不本意な故障で、わずか2試合しか投げられなかった伊良部だが、それでも「チームに与えた影響は大きい」と定岡は好意的だ。
「何より野球に対して真面目ですよ。ロッテ時代のイメージがあるから、もっとクセのある男かと思っていたが、全然違った。彼は僕のことを“監督さん”と呼ぶんですが、病気のこととかもしゃべってくれましたよ。はじめて知ったんですが、彼は胸の大動脈瘤になったこともあるらしいですね。でも“免疫ができたから、もう大丈夫だ”と。アメリカの医者がそう言ったらしいですよ。
 ピッチングに関しては実に繊細。ボール1個分の出し入れにこだわっていましたね。ロッテ時代のイメージからして、ただキャッチャーのミット目がけて力いっぱい投げ込むタイプかと思っていたら、全然違っていました」

 伊良部とヒザを交えて話し込んだのは、もう今から12年も前のことだ。
 場所はニューヨークのホテル。ヤンキースでメジャーデビューを飾った直後のことだった。ロッテ退団を巡ってトラブルを起こしたこともあり、この頃もまだ球界の伊良部に対する評判は芳しくなかった。

――なぜ、そこまでメジャーリーグにこだわるのか?
 私の質問に伊良部は、こう答えた。
「どうせ、たった一度の野球人生だったら、緊張してプレーできる大きな舞台でやりたい。それがヤンキースにこだわるようになった大きな理由なんです。(メジャーリーグファンになった)ルーツを辿れば15年前のことから話さなければなりません。
 僕が中学生の頃、ニグロリーグでものすごい成績を残しながら、世に出られなかったピッチャーの物語を、あるドキュメンタリー番組でやっていたんです。そう、世界最速のボールを投げたといわれるサチェル・ペイジのことです。それからというもの、僕は本やビデオでサチェル・ペイジのことを研究しました。本屋に行ってはメジャーリーグ関係の雑誌を読みあさりました。ヤンキースの存在を知ったのも、この頃です。
 ちょうどドワイト・グッデンがニューヨーク・メッツで衝撃的なデビューを飾った頃でもありました。グッデンのライバルでもあるロジャー・クレメンスが1試合で20個三振を奪った時は興奮しました。その写真を野球雑誌から切り抜いて、部屋に貼ったりもしていました」

 高校時代、既に190センチ近い長身だった伊良部は、自らの背丈を生かしたピッチングを模索するうちに、ますますメジャーリーグにのめりこんでいく。
「やっぱり190センチのピッチャーと175センチのピッチャーでは、身体の動かし方も投げるスタイルも全然違いますからね。だから同じくらいの背丈のピッチャーがどんなピッチングをしているのか勉強しようとなると、必然的にアメリカのピッチャーにばかり目が行ってしまったんです」

 それを裏付けるように香川・尽誠学園高野球部で1年後輩にあたる横浜の佐伯貴弘が、「伊良部さんの部屋にはメジャーリーグの専門誌が山積みにされていた」と語っていた。この国にメジャーリーグブームが到来するのは野茂英雄が海を渡った1995年だが、伊良部はそれよりもずっと前からメジャーリーグに目を向けていたのだ。

 それゆえ、彼のメジャーリーグ解説は他とは一味違う。
「日本のバッターとアメリカのバッターとではスイングの軌道が全然違う」
 以前、そう語ったことがある。いったい、どこがどう違うのか。
「アメリカのバッターは右バッターなら右手、左バッターなら左手のほうが圧倒的に強い。要するに遅れ気味の体勢からでも、そのまま押し込むようにして持っていけるのが、こちら(アメリカ)の強打者なんです。
 彼らはただでさえパワーがある上にスイングも速い。詰まろうが振り遅れようがお構いなし。それを封じるにはボールを両サイドに散らし、常に低めを突き、徹底してコントロールミスをなくす。それが最も有効でしょう」

 日本で11年、アメリカで6年プレーし、栄光も挫折も味わった。最後の一花を日本プロ野球で咲かそうとしたが、そのチャレンジは失敗に終わった。
 しかし、本人は故障を治してから、もう一度、出直したいと考えているようだ。
 ファイティングドッグスの定岡はこうエールを送る。
「このままでは不完全燃焼でしょう。ウチ以外でもいいから、もう一度、どこかでやってもらいたい。昔と比べると随分、ボールは遅くなっていたけど、技術的にはまだまだやれると思いますよ」

<この原稿は講談社『本』2009年11月号に掲載されたものです>


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