期待の若手が初スタメンで輝きを放った。
 2011年3月5日、等々力競技場、Jリーグ開幕戦。21歳の登里享平はリーグ戦初の先発出場を果たし、ゴールを奪った。今季は一気に出番を増やし、リーグ戦19試合の出場で2得点。川崎では主に左サイドハーフとしてプレーし、ロンドン五輪を目指すU-22日本代表にも名を連ねている。フロンターレが誇る快速レフティーだ。
 最大の武器は、左サイドでのドリブル突破だ。
「ファーストタッチで前に運んで、一気に相手を抜ききるのが僕のスタイルですね」
 開幕戦で奪ったゴールは、登里の持ち味が凝縮されたものだった。味方のパスカットからピッチ中央付近でボールを受けると、ファーストタッチで前方のスペースへ蹴り出す。セカンドタッチの時には既にPA内に到達。そして、3度目のタッチでゴールへ流し込んだ。

「左サイドでパスを受ける時、ボールの移動中に相手のマークを確認します。食いついてくればファーストタッチで前に運んで、一気に相手を抜ききる。逆に(相手と)距離があれば、少し仕掛けながら様子を見て、パスも出せるように間接視野でゴール前や中の選手を確認しておくんです。そして最後に相手の体重がどちらにかかっているかを見極め、抜きにかかるかどうかを判断します」

 そんな極意を登里は高校時代に身につけた。現在のポジションに出会ったのも高校に進学してから。今でこそ左サイドハーフが主戦場だが、中学校では主にボランチだった。「香川西はすべてにおいて成長できた場所」。本人がそう振り返るほど、香川での3年間は現在の登里の礎になっている。

 “仕掛け”を徹底

 少年時代、高校サッカー選手権に出場すること、そしてプロになることが登里の夢だった。
 それを叶えるために選んだのは高校サッカー界の雄・帝京高。セレクションに合格し、本人も進学を決めていた。だが、特待生ではなく、一般入学となることがわかると、登里は両親への負担を考慮し、2人の兄が通っていた地元の高校へ進路変更を決意する。
 しかし、ひとつの提案が運命を変えた。

「一度、香川西高の練習に行ってみないか?」
 小学校時代、EXE’90FCで指導を受けた山元浩敬からの勧めだった。山元は香川西の出身で、登里が帝京のセレクションに合格する前にも、母校への練習を打診していた。ただ、当時の香川西サッカー部は県内でもベスト3がいいところで、帝京のような選手権常連校と比べると知名度は低かった。
「とりあえず、練習に参加させてもらうことにしました。でも、この時は(香川西に)行くつもりはなかったですね」

 だが、練習に参加した登里は「(香川西で)すぐにチャレンジしたいと思った」と、香川西への進学を希望する。決め手は何だったのか。
「一番大きかったのは監督の人柄に惹かれたからですかね」
 練習参加の際、監督の大浦恭敬に「自分は将来、プロでやりたい」と夢を伝えた。返ってきた大浦の言葉に15歳の少年は心をつかまれた。
「すごくいいポテンシャルを持っている。関東の有名校に比べれば四国の高校はプロのスカウトの目にとまりにくい部分はある。でも、オレはそういう機会をつくる。だから香川西でどんどん成長してプロに行ってくれ」

 こうして香川西へ進んだ登里に高校1年の夏、大きな転機が訪れる。大浦から左サイドハーフへのコンバートを命じられたのだ。その理由を大浦は次のように語る。
「登里の最大の魅力は2、3mの一瞬のスピードです。そして、彼は足は左利きですが、手は右利き。つまり“利き視野”が右ということも大きかったですね」
 左サイドでプレーする場合、左側から敵が来ることは少ない。左サイドでは「“左利きで右視野”の選手が有利になる」というのが大浦の持論だ。これに当てはまる選手が登里だった。
 
 もちろん、すぐに結果が出るはずはない。登里はコンバートされた当初をこう振り返る。
「元々スピードやドリブルには自信はありました。ただ、ボランチから左サイドに変わったことで戸惑いが出て、この時期はだいぶ悩みました」
 まず指揮官から徹底されたのは「仕掛ける」こと。試合中、左サイド前方でボールを受けて、パスを選択すればカミナリが落ちた。「ボール持ったらとにかくドリブル。もう、それこそ叩き込まれたという感じですね(笑)」と本人が語るほどの指導の意図を、大浦は「仕掛けの判断を身につけて欲しかったんです」と明かす。

 仕掛けの判断。大浦はこれを“信号機”を引き合いに出して説明する。“青”は仕掛ければ突破できる時。“黄”は可能性が五分五分で、その時によって仕掛けるかパスかを判断する。そして“赤”は仕掛けても奪われる可能性の方が高い時だ。
「最初から“赤”“黄”“青”を完全に判断することは難しい。なので、それを学習するには仕掛けることを繰り返すしかないんです」
 
 チーム練習が終わっても、登里は居残り練習を指示された。
「居残り練習は、監督に“やっとけ”と言われて毎日続けました。ドリブル練習やショートバウンドのボールの受け方などを延々と。おかげで、“自分のウリはドリブル”と言えるようになりましたね」

 ただ、あまりの厳しさに時には反抗したこともあった。1年生の時の選手権香川県予選準決勝。試合中、大浦から指示を受けた時だった。
「うるさいねん!」
 慣れないポジションで思うようなプレーができないことへのはがゆさが爆発してしまった。しかし、指揮官はその後の練習でも登里へ熱のこもった指導を続けた。
「普通、そんなことを言われたら、少しは気を悪くするじゃないですか。でも、監督は僕を見捨てなかった。なので、自分もその期待に応えたいという思いに変わりましたね」

 その後も、大浦から怒られる日々は続いた。だが、「怒られたら、逆に監督を黙らせるくらいのプレーをするんだと考えるようになった。自らを奮い立たせられるようになりましたね」。技術的だけではなく、メンタル的にも成長した。そして同年、香川西は選手権予選を突破し、登里は夢の場所へ早くも到達する。

 夢が目標に

 憧れの選手権の舞台。初戦の相手は、名門・青森山田高だった。この試合、香川西は0−3の完敗を喫する。
「選手権に出られたことで満足している自分がいました。試合では何もできなくて、情けなかった。ただ、この試合を経験したことで、選手権に出るだけでなくそこで活躍する。そして、もっと上のレベルへ行きたいと強く思うようになりましたね」
 上のレベル――。すなわちプロになること。遠い「夢」が、この時を境に明確な「目標」に切り替わった。

 2年時にはインターハイに出場。選手権のピッチにも2年連続で立ち、全国の舞台を立て続けに経験した。08年3月には大迫勇也(当時鹿児島城西、現鹿島)らとJFA選抜にも選出された。そして、3年になった同年春、四国プリンスリーグの試合前日に、大浦から川崎のスカウトが見に来ていることを伝えられる。試合後、スカウトから声をかけられた登里は川崎の練習参加とう絶好のチャンスを得た。
 ここでアピールできれば、プロへの道は大きく拓けてくる。インターハイ予選終了後、登里は上京し、川崎の練習グラウンドで日本代表MFの中村憲剛らとともにボールを蹴った。
「この時は持ち味であるドリブル突破やスピードをフルに出せたので、アピールできたというより、楽しかったですね。プロに混じった中ですごくいい自分が出せました」

 練習では川崎のアットホームな雰囲気に強く惹かれた。
「その頃、僕の髪型が坊主だったこともあって、“田舎っぺ”といじられました(笑)。でも、本当にみなさんが僕に気をつかってくれた。この温かい雰囲気に触れたことで、なおさらフロンターレに行きたいと思いましたね」
 思いは、通じた。08年9月、川崎へ加入することが内定した。

 そして、高校生活最後を締めくくる選手権では、名門・市立船橋高相手にジャイアントキリングを起こす。この試合、登里は得意の左サイドからの突破でアシストを記録。2−1の勝利に貢献した。次の3回戦で敗れたものの、活躍が認められ、選手権後に高校選抜の一員として国際大会に参加。欧州の一流クラブに所属する同世代を相手に、4試合で3得点をあげた。
「世界を相手に、自分のプレーが通用した。大きな自信になりましたし、高校生活をいいかたちで終えられたと思います」
 大阪で生まれた才能は、香川で光を放ち、いよいよプロの舞台へと降り立った。

(第2回へつづく)

登里享平(のぼりざと・きょうへい)プロフィール>
1990年11月13日、大阪府生まれ。クサカSS─EXE'90FCジュニア─EXE'90FC─香川西高。香川西では高校サッカー選手権に3年連続出場を果たすなど、全国の舞台を経験。3年の選手権後には高校選抜にも選出された。09年、川崎フロンターレに加入し、2試合1得点。昨季は9試合と出場機会を増やした。迎えた今季、開幕戦でスタメンに抜擢されゴールをあげるなど、19試合2得点。今後の川崎を背負う選手として期待されている。またU-22日本代表にも選出され、10年広州アジア大会では優勝に貢献。現在は来年のロンドン五輪出場を目指している。爆発的なスピードと積極的なドリブル突破が持ち味。身長168センチ、体重65キロ。背番号23。







(鈴木友多)
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