故郷・愛媛で野球をするのは高校時代以来、実に18年ぶりのことだ。
 宇和島東高を経て千葉ロッテ、横浜の2球団で活躍した橋本将は今季、地元の独立リーグである四国アイランドリーグPlusの愛媛マンダリンパイレーツでプレーしている。中軸に座り、DHやキャッチャーとして63試合に出場。打率.276、4本塁打、34打点の成績でチームの後期優勝に貢献した。
 選手生命の危機

 ロッテでは里崎智也とのツープラトン体制でマスクを被り、05年のリーグ優勝、日本一に貢献。レギュラーキャッチャーとして更なる飛躍を遂げるべく、10年に横浜へFA移籍した橋本は昨年、選手生命の危機を迎えていた。持病の腰痛が悪化し、足にしびれが出て力が充分に入らない。守りに就くことはおろか、バットも満足に振れなかった。日常生活にも支障が出る状態だった。

 キャッチャーは守備で立ったり座ったりを繰り返す過酷なポジションだ。腰痛を抱えている選手は少なくない。橋本も例外ではなかった。ケアをしながら付き合ってはきたが、昨年、開幕前の2軍の教育リーグで腰を痛め、我慢しているうちに症状はどんどん悪くなった。野球をできるレベルに回復するまで約3カ月かかった。とはいえ、少しでも疲労がたまると腰が悲鳴を上げる。復帰後も練習が充分にできず、2軍でも結果は残せなかった。

 結局、昨季は最後まで1軍出場なし。FAで期待されて入った選手だっただけに、球団からは非情の“クビ”宣告が待っていた。
「野球選手としては、このままでは無理」
 診察した医師からも、そう告げられた。

 しかし、まだ現役は諦められなかった。
「手術しても100%良くなることはないかもしれない。でも5割しか動けないのが8割動ければ、まだプレーはできる」
 戦力外になったのを機に手術を決断した。体を万全に近い状態に戻して、再チャレンジしようと考えたのだ。

 地元にチームがある幸運

「昨年までアイランドリーグでプレーするイメージは全く沸かなかった」と橋本は明かす。それはそうだろう。華やかなNPBの1軍で活躍していた人間が、野球のレベルも環境も異なる独立リーグに敢えて身を投じようとは誰も考えまい。しかし、腰の手術を受け、トライアウトも受けられなかった橋本にオファーを出してくれる球団はない。そんな中、地元で1年間、野球に取り組める場所があることは救いだった。
「手術をした後、どこまで体が動くか分からない。海外だと入団テストも受けないといけないし、すぐに結果を求められる。その意味では慣れ親しんだ地元で、しかもNPB復帰に向けた思いも理解してもらえるチームがあったことはラッキーでした」

 実際、プレーしてみるとリーグのレベルは「NPBの2軍クラス」に映った。ただ、若いピッチャーたちは何とか元NPB選手を抑えてアピールしようと必死で投げてくる。春先は結果が出ない日々が続いた。
「“元NPBだから、もっと打てるだろう”という感じで見られていたと思いますけど、実際にはなかなか結果が出なくて苦しみました。野球の難しさを改めて感じましたね」

 何より橋本は昨年1年間、1軍はもちろん2軍でも満足に野球ができていない。NPBでは自主トレ、キャンプ、オープン戦と調整してシーズンに臨むスタイルが体に染みついている人間にとって、ほぼぶっつけ本番でシーズンに臨んで好成績を収められるほど甘くはなかった。
「これではチームにも本人のためにもならない。そう考えて彼にはもう一度、ミニキャンプをさせて体のキレを取り戻させました」
 そう明かす監督の星野おさむのはからいもあり、4月下旬からは約1カ月ほど試合に出ず、もう一度、体をつくり直した。

「6月くらいからだいぶ腰が気にならなくなってきましたね。キャッチャーでも守れるようになったし、不安が消えていきました」
 練習量が増え、体のキレを取り戻した橋本は本領を発揮する。6月は打率.391、1本塁打、11打点。得点圏打率.429と勝負強さも見せただけでなく、出塁率も5割を超えた。元NPB選手としての存在感を示し、その月の月間MVPを獲得した。

 その後もクリーンアップでコンスタントに試合に出続け、愛媛は4年ぶりの後期優勝。悲願のアイランドリーグ制覇に向けて、現在は香川オリーブガイナーズとのチャンピオンシップを戦っている。故郷のチームを高みに導いた後は、NPBのトライアウトを受け、復帰の道を探るつもりだ。
「やることやってダメだったら仕方がない。トライアウトまでは精一杯できることをやりたいですね」 

 36歳という年齢や、千葉に残した家族のこと、環境面を考えれば、来年もアイランドリーグに残る選択肢はないと明かす。おそらく現役生活で最後になるであろう地元での白球を追う日々――それらを良き1ページにすべく、橋本は高校時代と変わらぬ気持ちで、100%野球に打ち込んでいる。

(第2回につづく)

<橋本将(はしもと・たすく)プロフィール>
1976年5月1日、愛媛県出身。宇和島東高時代は甲子園に4度出場。3年春にはベスト8に進出する。94年のドラフト会議で千葉ロッテから3位指名を受けてキャッチャーとして入団。ケガもあって1軍に定着できない日々が続いたが、6年目の00年に77試合でマスクを被り、打撃でもプロ初本塁打を放つなど結果を残す。04年からはボビー・バレンタイン監督の下、里崎智也と併用で起用され、05年にはリーグ優勝、日本一に貢献した。10年にFA権を行使して横浜に移籍。11年は腰痛が悪化したこともあり、1軍出場がなく戦力外に。今季は地元のアイランドリーグ・愛媛でプレーした。NPBでの通算成績は実働13年、727試合、打率.234、44本塁打、229打点。アイランドリーグでの成績は63試合、打率.276、4本塁打、34打点。身長179cm、88kg。背番号10。



(石田洋之)
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