「最初からバッティングはすごかったですよ。特に引っ張った打球はめちゃくちゃ飛んでいましたね」
 橋本の少年時代について、そう教えてくれたのは東京ヤクルトの宮出隆自だ。宮出は橋本の1年後輩にあたる。宇和島市の和霊小、城北中、宇和島東高、そしてプロ……後を追いかけるように同じ道を歩んできた。
 高校生離れしたスイングスピード

 小学校のソフトボールクラブを経て少年野球のチームに入った橋本は強打者として地元で目立つ存在となる。ポジションは最初からキャッチャー。ただ、チーム事情でピッチャーや外野手もこなした。中学卒業後、甲子園を目指して宇和島東に進んだのは「自然の成り行き」だった。同校は橋本が小学6年の時にセンバツで初出場初優勝。強力な“牛鬼打線”がチームの特色になっていた。
「“プロ野球選手になりたい、いや、なるんだ”と思っていたので、その近道は甲子園に行くこと。近くに絶好の環境があるんだから、もう他の選択肢はなかったですね」

 宇和島東を率いていたのは上甲正典監督である。その後、済美高に移り、04年のセンバツでは初出場初優勝。橋本、宮出に加え、平井正史、岩村明憲、鵜久森淳志、福井優也ら多くのプロ選手を育てた名指導者だ。その上甲も入学したての15歳のバッティングには度肝を抜かれた。
「器用ではないが、馬力がすごい。スイングスピードは高校生離れしていましたよ」

 試合では笑顔を見せ、“上甲スマイル”でおなじみの指揮官だが、普段の練習は熾烈を極めた。“牛鬼打線”の源は徹底した筋力トレーニングにある。早朝から授業を挟んで深夜までの猛練習。甲子園に行き、プロを目指すためとはいえ、「毎日、辞めたいと思っていた」と橋本も苦笑する日々が続いた。しかし、天性の飛ばす力にパワーも備わり、1年夏から県大会初戦で満塁ホームランを放つなど、その打力は早くから輝き始めた。

 確実性に課題のあった橋本に、上甲はさまざまな練習を施した。そのひとつが剣道だ。調子が落ちると、剣道部にお願いをしてバットではなく竹刀を振らせた。
「剣道をさせるとインパクトの部分に集中するようになるし、リストも使う。それにフットワークがないと踏み込んでは打てませんからね。下半身と上半身をしっかり連動させる意味でも効果があると思ったんですよ」
 四国の名将はそう剣道トレの意図を明かす。橋本は着実に成長を遂げ、1年秋からは中軸を任されるようになっていった。

 弾丸ライナーでライトスタンド中段へ

 当時の宇和島東は1つ上の学年に後にプロ入りする平井、岩村敬士(元近鉄)がおり、県内でも頭ひとつ抜けた存在になっていた。特に平井は「球は速かったですよ。他のピッチャーとは体つきからして全然違いました」と橋本が語るように、剛速球右腕として全国的にも知名度は高かった。プロ注目のピッチャーを擁し、同校は橋本が2年時の春、夏と甲子園に連続出場する。

 だが、前評判の高かった宇和島東は甲子園ではなかなか勝てなかった。2年の春は常総学院(茨城)に初戦敗退。夏は1回戦を突破したが、2回戦では桐生第一(群馬)に小刻みに得点を重ねられ、8回までに0−7と大量リードを許した。

 敗色濃厚の9回裏。しかし、橋本はここで運命を変える一撃を放つ。それまで捉え切れなかった相手投手のストレートを完璧につかまえた。快音を残した打球は一直線でライトスタンドへ。ライナーで中段に突き刺さる豪快なホームランだった。
「それまでは宇和島東といえば、イコール平井さんだったのが、僕の存在を知ってもらえる一発になりましたね」
 プロ顔負けの当たりは「宇和島東に橋本あり」とアピールするには十分だった。試合には敗れたものの、強烈なインパクトを残した。

 まさかの大逆転負け
 
 そして迎えた最終学年。宇和島東は前年秋の四国大会を制し、再び春の甲子園に戻ってきた。橋本は4番・キャッチャー。秋の公式戦での打率は6割を超えていた。トップバッターでピッチャーの松瀬大(早大−日本生命)、3番の宮出とともに投打にバランスのとれたチームとして優勝候補にも挙げられていた。

 初戦の相手は強豪・東北(宮城)。大会ナンバーワン左腕・嶋重宣(現埼玉西武)と牛鬼打線の対決は1回戦屈指の好カードと言われた。しかし、結果は予想外のワンサイドゲームになった。初回、松瀬がレフトオーバーの二塁打で出塁すると、1死三塁となり、宮出の犠飛であっさり先制。ここで打席に橋本が入る。嶋のストレートをきっちりと打ち返し、瞬く間にライトフェンスを直撃した。この一打から、さらに打線がつながり、初回に4点を先行。終わってみれば11−2の圧勝だった。

 2回戦は古豪・広島商。終盤まで2点ビハインドの展開ながら、最終回に追いつき、延長13回に宮出のタイムリーで勝ち越す。宇和島東は初優勝時以来のベスト8入りを果たした。続く準々決勝で激突したのは智弁和歌山だ。6回に3点を先制すると、8回までは4−0。準決勝進出は目前だった。

 ところが、最終回に四死球も絡んで一挙5点を奪われ、まさかの逆転を許す。マスクを被っていた橋本は野球の怖さを思い知らされた。
「今、振り返ってみると完全な油断ですよね。“勝てる”と思ってしまった。近畿勢ということもあって、大観衆のほとんどが智弁を応援している。智弁が反撃を始めると、その雰囲気に飲まれてしまったんですよね」

 その裏、橋本も意地のライト前ヒットを放って出塁し、一時は同点に追いつく粘りを見せる。とはいえ、一度傾いた流れを引き戻すことはできなかった。延長10回、1点を勝ち越され、悔しい敗戦を喫した。劇的な勝利で勢いに乗った智弁和歌山は、ここからさらに勝ち上がり、初優勝を収める。

 宇和島東は続く夏も甲子園に出場したが、1回戦で再び終盤にひっくり返されて敗れる。県大会で4本塁打をマークするなど好調だった橋本も、最後の甲子園では二塁打1本に終わった。4度の大舞台では頂点に立てなかったとはいえ、高校通算40本塁打。そのパンチ力はプロのスカウトから高く評価された。秋のドラフトでは3位で千葉ロッテから指名を受けた。

「プロ野球選手になるのが目標でしたから、12球団どこでもOKでした」
 もっと上を目指してプロでは頂点に――。期待に胸をふくらませて橋本は四国から上京した。18歳の冬だった。

(第3回につづく)
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<橋本将(はしもと・たすく)プロフィール>
1976年5月1日、愛媛県出身。宇和島東高時代は甲子園に4度出場。3年春にはベスト8に進出する。94年のドラフト会議で千葉ロッテから3位指名を受けてキャッチャーとして入団。ケガもあって1軍に定着できない日々が続いたが、6年目の00年に77試合でマスクを被り、打撃でもプロ初本塁打を放つなど結果を残す。04年からはボビー・バレンタイン監督の下、里崎智也と併用で起用され、05年にはリーグ優勝、日本一に貢献した。10年にFA権を行使して横浜に移籍。11年は腰痛が悪化したこともあり、1軍出場がなく戦力外に。今季は地元のアイランドリーグ・愛媛でプレーした。NPBでの通算成績は実働13年、727試合、打率.234、44本塁打、229打点。アイランドリーグでの成績は63試合、打率.276、4本塁打、34打点。身長179cm、88kg。背番号10。



(石田洋之)
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