「“東洋大学”という看板を背負っているので、その誇りは常に心の中にあります」。そう力強く語ったのは、東洋大学陸上競技部の市川孝徳だ。毎年1月2、3日に行なわれる新春の風物詩「東京箱根間往復大学駅伝競走」で3度の制覇を誇る東洋大。市川はその主力メンバーの1人である。現在では、陸上部副将、そして駅伝主将を務め、東洋大の中心的存在となっている市川だが、これまでの競技人生は華々しい時ばかりではなかった。いわゆる“エリート街道”をひた走ってきたわけではない。

 

 市川は、高知県高岡郡窪川町(現四万十町)で5人きょうだいの末っ子として生まれた。幼少期の彼は、体は小さく気も弱かった。「花火が上がると、押し入れや布団の中に隠れていました」。そう母親が語るほど、小さい頃は臆病だった。サッカー少年だった2人の兄の背中を追いかけるように、物心がついた時にはサッカーボールを蹴り始めていた。小学1年生からは兄たちと同じチームに入ったが、地元では有名だった兄2人から「センスがない。辞めた方がいい」と言われるほど、ことボールを扱うことに関して、器用ではなかった。

 

 その代わり、スタミナには自信があった。校内の運動会や体育祭、マラソン大会……と走ることにおいては、他のきょうだい同様に学年の花形選手だった。家族にとっても、特に運動会は一大イベントだった。「いい席をとるために、夜中に場所取りをするほど、運動会をとても楽しみにしていました」と、母親は当時を嬉しそうに振り返る。「5人の中でも、孝徳の走っている姿は一番綺麗だなと思っていました。それが自慢でしたね」。この頃から市川の走りには、人を引きつける何かを持っていた。

 進路変更のきっかけは“近所の先生”

 そんな市川が9年間続けたサッカーに見切りをつけ、陸上に転向したのは高校生からだ。きっかけは彼が中学3年生の時、“近所の先生”から駅伝大会に誘われたことだった。近隣に住む小学校教員の奥村智は、市町村対抗駅伝大会で窪川町代表の監督を務めていた。そのメンバーの1人として、市川に白羽の矢を立てたのである。

 当時の市川はサッカー部であり、当然、陸上界では地元でも無名の存在だった。ただ、兄2人も中学時代にサッカー部から借り出されて出場した経緯があり、そこで結果を出していた。「あの市川の弟なら」。その潜在能力に奥村は賭けたのだ。市川が通う窪川中学の先生からは陸上部の生徒を出すことを提案されたが、奥村は「1分、1秒でも速いメンバーでいきたい」と、それを半ば押し切るかたちで市川を選んだ。

 結局、大会での成績は区間10位くらいだったという。それでも市川の思いは、奥村から陸上転向を強く勧められたこともあり、この大会をきっかけにサッカーから陸上へと傾いていった。そんな彼に奥村は、高知工業高校への進学を勧めた。本格的に陸上に転向するのなら、県内屈指の強豪校でもまれた方がいいと考えたからだ。また、同校陸上部の岡村博三監督は、奥村の高校時代の同級生だった縁もあった。

 奥村は「この子は、すごく強くなるから」と、岡村に市川を推薦した。こうした奥村の後押しもあり、市川は陸上転向を決意。「オレ、サッカー辞めて、陸上をやる」。高校進学前に、そう家族にきっぱりと宣言をした。それまでの兄の背中を追いかける道を止め、自ら道を切り拓いていくことを決心したのである。

 踏み出した夢路への一歩

 市川は高校に入ると、奥村の期待通り、めきめきと力をつけていった。「全国高等学校駅伝競走大会」の県予選では1年生から3年連続区間賞を獲得し、高知工の優勝に貢献した。都大路も3年連続で走り、全国の舞台を経験した。しかし、全国レベルになると、高知工は33位、40位、44位と振るわなかった。市川個人も1年生(7区27位)、2年生(1区44位)、3年生(4区41位)と、力は遠く及ばず。市川本人も「“全国大会に出られればいいや”というくらいの気持ちでいました」と、意識の高さでも全国の舞台で勝負する水準にはなかったという。

 だが、彼には陸上を始めた当初からの夢があった。大学駅伝、とりわけ箱根駅伝への憧れは強かった。そのため、高校卒業後は、実業団に入る選手が多い中、市川は大学に進学することを望んでいた。ただ、家庭への経済的負担を気にしてか、3年生になっても市川はそのことを口にすることはなかった。

 そんなある日のことだ。彼の夢を後押しするように、大学からの進学の話が舞い込んだのである。東洋大陸上部コーチの佐藤尚から誘いがきたのだ。佐藤はスカウト活動で全国を飛び回り、原石たちを探していた。

 佐藤が市川を初めて見たのは、彼が高校1年生の時の全国高校駅伝だ。その時の印象をこう語る。「身長もあったし、今までにないタイプの面白い選手だと思いました」。当時の市川は、全国にその名を轟かせるようなエリートランナーではなかった。タイムも、ごく普通の選手だった。

 それでも佐藤の目には、「体型的にも良かったですし、動き自体も良かったですね」と、磨けば光るものを感じたという。そこから佐藤は“高知の無名のランナー”をマークするようになった。また、東洋大には久保田満、渡辺史侑ら、高知工出身の先輩たちが進学した縁もあった。

 そして、正式に同大から誘いを受けた後、市川は家族に、初めて胸の内を明かした。「本当は大学駅伝に出たい。東洋大で鍛えてもらいたい」。そこには夢を叶えるための覚悟も含まれていた。こうして、市川の夢路は開かれたのだった。

(第2回につづく)

市川孝徳(いちかわ・たかのり)プロフィール>
1990年11月3日、高知県生まれ。小学校1年生からサッカーを始め、高校1年生から本格的に陸上競技に転向する。高知工業高校では、3年連続で「全国高等学校駅伝競走大会」に出場した。東洋大学進学後は、1年生から「東京箱根間往復大学駅伝競走」(箱根駅伝)に出場を果たし、復路の山下りの6区を任され、優勝を経験する。2、3年生の時も6区を任されている“山下りのスペシャリスト”だ。3年生の時には、「出雲全日本大学選抜駅伝競走」と箱根駅伝で、区間賞を獲得し、チームの2冠に貢献した。今シーズンから陸上競技部の副将、駅伝主将を務める。身長177センチ、51キロ。



(杉浦泰介)


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