世界の頂点を知る者たちが、「彼」の才能を賞賛している――。近年、日本が生んだ世界に誇れる体操選手といえば、冨田洋之(順天堂大学体操競技部コーチ)と内村航平(KONAMI)である。その2人が自らを超えるべき選手と期待を寄せているのが、順大体操競技部の野々村笙吾だ。20歳になったばかりの大学2年生は、3年後のリオデジャネイロ五輪で、北京、ロンドンと2大会連続で逃した団体金メダル獲得のキーマンとして、目されている。
 身長157センチと、野々村は小柄な選手が多い体操競技の中でも決して身体が大きい方ではない。性格は温厚で、普段、ほかの部員からはいじられるキャラクターだ。愛嬌があり、その場を和らげる雰囲気を持っている。しかし、ひとたび演技に入れば、力強い美しさで観客を魅了する。

 彼を指導する順大体操競技部の原田睦巳監督はこう評価する。「体線がきれいですね。それと身体が強い」。ラインの美しさは見栄えを引き立て、軸の強さは体操で重要な“止める”という動作を支える。「我々は締めると言うんですけど。身体をギュッと収縮させるって言ったらいいんですかね。動いている中で、ピタッと止まらなきゃいけない技が体操には多い。そういう技をした時に、野々村は突出していい動きが出ますね」。それは現役時代、“美しい体操”を追求し、輝かしい実績を残してきたコーチの冨田の意見も同じだ。「体線がしっかりしているから、演技全体が栄える。上半身の力も強いので、(得意の)つり輪の力技は身体全体がすっきりして見える。ただ強いだけでなくいい姿勢で止められるのが長所ですね」

 現在、世界の男子体操界のトップに君臨するのは、内村だ。世界選手権は前人未到の個人総合3連覇中。昨夏のロンドン五輪でも個人総合で表彰台の頂点に立った。その内村から「負けるなら2人のどちらかに負けたい」などと、メディアを通じて、野々村とその同級生の加藤凌平に対しての発言がしばしば聞かれる。“後継者”との見出しが躍ることも少なくない。

 とはいえ、未だ内村が格上であることに変わりはない。
「次元が違う。技の難度が全種目高い上にキレイで、余裕のある演技ができるところがすごいと思います」。野々村自身、大きな実力差があることを認めている。だが、諦めているわけではない。オリンピックや世界選手権という大舞台に立ち、そこで金メダルを獲るとの目標がある以上、避けては通れない“壁”だからだ。

「(内村さんに)名前を出してもらえるのは、本当に光栄なことだと思います。そう思ってもらうからには、内村さん以上に練習をして、早く追いついて、超えたいと強く思っています」
 初めて会った高校1年の時には、内村を雲の上の人のように感じたという野々村。だが、空を見上げるばかりでいる気はない。

 切磋琢磨してきた弟の存在

 野々村が体操競技と出合ったのは6歳の頃だ。両親ともに体操競技の経験はなく、体操とは無縁の家庭で育った。ある日、母親が保育園の先生から「運動神経もいいですし、何かスポーツをさせてみたらどうですか?」と勧められた。そこで何かスポーツを習わせようと思っていた時、よく行く焼肉店のそばに体操教室「フジスポーツクラブ」があったのだった。母親が野々村を連れて同クラブの見学に行くと、本人は体を動かすことが好きということもあって、すぐに体操を気に入った。1歳下の弟の晃司とともに、フジスポーツクラブへの入団を決めた。

 当初、野々村は一般クラスだったが、3カ月ほどして別のクラスへ移った。クラブから本格的に選手を目指すための競技クラスへの誘いを受けたのだ。実は先に話を持ちかけられたのは弟の方だった。“弟が上がるなら、お兄ちゃんも……”という話になり、いわば“おまけ”のようなかたちで、野々村も昇格したのである。「最初は単なる遊び感覚でやっていたのですが、競技クラスに入って、バク転などを練習し始めていくうちに、体操がどんどん好きになっていきました」。小学2年からは父親が教える少年野球チームにも入ったが、心はもう体操に傾いていた。

 性格は正反対な野々村兄弟だが、フジスポーツクラブ、市立船橋高校、そして現在の順大と、同じ道を辿っている。ただ、才能が芽吹き始めるのは弟の方が早かった。09年、弟は14歳で初めて出場した国際大会のボローニンカップのジュニアの部で個人総合を制した。自他ともに認める「負けず嫌い」の兄が、頭角を現したのは、その数カ月経ってからだった。

 野々村は弟の存在をこう語る。「高校の頃から兄弟というよりも、ひとりの部員として見ています。お互いに、技を教え合ったりしているんです。そういうのがいいですね」。野々村兄弟は、互いに刺激し合って成長してきた。

 上り詰めた世代の頂点

 高校2年になると、野々村の快進撃が始まった。4月のアジアジュニア選手権では個人総合優勝。のちにロサンゼルス五輪で個人総合とつり輪の金メダルを獲得した具志堅幸司以来、34年ぶりの快挙だった。7月の全国高校総合体育大会(インターハイ)の個人総合では予選をトップで通過しながら6位に終わったが、8月の全日本ジュニア選手権では、跳馬で大技の「ロペス」(側転跳び4分の3ひねり後方伸身宙返り2回ひねり)を決めて16.600の高得点をマークするなど、合計88.850で優勝した。日本体操協会は16歳の新星に対し、<世界チャンピオンの内村らと同じ土俵で戦える実力をつけ、今後楽しみな存在>(日本体操協会公式ブログ)と破格の評価を与えた。

 高校3年になっても、快進撃は衰えるどころか勢いを増すばかりだった。シニアのトップ選手たちが集う全日本選手権で9位、NHK杯で7位に入り、その年の世界選手権の補欠に選ばれた。インターハイでは個人総合と団体、全日本ジュニアと国際ジュニアでは個人総合、国体では千葉県代表として団体を制すなど、数々のタイトルを手にし、その世代のトップに躍り出た。

 さらにワールドカップ(W杯)シリーズのドイツ大会でも安定した演技を見せ、優勝を成し遂げる。これは、市立船橋高で野々村を指導した神田眞司監督も「(優勝は)100%ないと思っていた」と、驚くアップセット。なぜなら世界選手権で10、11年と2大会連続銀メダルを獲得したフィリップ・ボイ(ドイツ)ら世界のトップクラスたちが出場していた中での快挙だったからだ。「W杯に初めて行って、優勝できるとはまったく思っていなかったんです。強い人ばかりでしたから」と野々村。無欲で掴んだ勝利だった。

 つづくW杯東京大会では、あん馬で失敗し、メダルには届かなかったものの4位入賞。つり輪では、優勝した内村航平と並ぶ全体トップの得点をマークするなど、ドイツでの快挙がフロックでないことを証明してみせた。内村には、「技をひょいと簡単にやってしまうので、うらやましい」と言わしめた。

 この頃、野々村はリオデジャネイロ五輪に置いていた目標をロンドンへとシフトしていた。だが、翌12年の8月、ロンドンの大舞台でスポットライトを浴びたのは、野々村ではなく、同い年のライバルだった――。

(後編につづく)

野々村笙吾(ののむら・しょうご)プロフィール>
1993年8月16日、千葉県生まれ。6歳で地元のフジスポーツクラブに入団し、体操競技を始める。市立船橋高校に入学すると、2年時にアジアジュニア選手権大会、全日本ジュニア選手権大会の個人総合で優勝。3年時には、NHK杯で7位に入り、ナショナルメンバー入りを果たす。その後は、全国高校総合体育大会、全日本ジュニア、国際ジュニア選手権大会、W杯ドイツ大会の個人総合を制した。2012年、順天堂大学進学後は、全日本学生選手権大会(インカレ)の団体連覇に貢献。同年の全日本団体選手権大会でも主力として、10年ぶりの優勝に導いた。今年のインカレでは、全6種目に出場し団体3連覇を経験。また個人総合でも初制覇し、団体と合わせて2冠を達成した。つり輪と平行棒を得意とするオールラウンダー。157センチ。

(文・写真/杉浦泰介)
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