現在、スーパーバンタム級の世界ランカーである石本康隆(帝拳ジム)だが、プロ入り前はアマチュアで1戦1敗と、特筆するほどの経歴はない。高校や大学で数多のタイトルを獲得し、鳴り物入りでプロの世界へと飛び込んできた粟生隆寛(高校6冠、WBC世界フェザー級、同スーパーフェザー級の2階級制覇)、井岡一翔(高校6冠、WBA・WBC世界ミニマム級統一王座、WBCライトフライ級の2階級制覇)などのように華やかな道を歩んできたわけではない。竹原慎二(元WBA世界ミドル級王者)、辰吉丈一郎(元WBC世界バンタム級王者)らのごとく、少年時代はケンカばかりに明け暮れていた“札付きの不良”だったという荒々しい“逸話”もない。典型的なボクサーの型にはまらない石本のボクシング人生。その原点は、子供の頃の真似事から始まった。


 石本の幼少期は父親によれば「運動神経はまあまあ。普通の子」だったという。「色んなことをやらせて、何が向いているのか、やりたいのかを見つけて欲しかった」との父親の意向もあり、書道やエレクトーンを習い、塾にも通った。地元のサッカーチームにも入った。だが本人が「どれも中途半端だった」と振り返るほど、それらは石本が本気でのめり込むものではなかった。

 そんな石本がボクシングと出合ったのは、小学4年の時だ。テレビのドキュメンタリー番組を見て、辰吉に憧れを抱いたのだ。「とにかくカッコ良かった。ボクシング以外のところでも引きつけられましたね。人間性も魅力的だなと思いました」。“浪速のジョー”と呼ばれた辰吉は、当時の国内最短記録となる8戦目で世界王座奪取に成功するなど、瞬く間に頂点に上り詰めていった。その強さだけなく奔放なキャラクターもあってカリスマ的な人気を誇っていた。今でも数多くの現役ボクサーが辰吉に憧れ、彼の背中を追い掛けている。自ずと石本も将来の目標をボクサーと思い描くようになっていった。

 12、3歳の時に父親からボクシンググローブやヘッドギアなどのボクシングセットを買ってもらった。石本はそれを身に付けて、2歳下の弟とボクサーごっこをした。辰吉の他にも、5階級制覇のシュガーレイ・レナード(米国)やWBC世界スーパーフライ級を6度防衛した川島郭志が好きで、名王者の試合の映像を見ては真似ていた。この“ごっこ遊び”が、ボクサー石本にとっての「原点」だった。

 失恋からの一念発起

 中学2年の時、石本は自宅から自転車で5分ほどの近所にある「瀬戸内ボクシングジム」に入会した。しかし、ボクシングへの情熱は長続きしなかった。「唯一、自分からやりたいと言ったボクシングなのに……。ジムに行ったり行かなかったり。全然、一生懸命じゃなかった」。石本はジムを4年間で2度も退会した。

 それまで中途半端な態度をとっていた石本が一念発起したのは高校を中退し、18歳になってからだ。きっかけはひとつの失恋だった。「その時も何ひとつ頑張っていなかった。それで、自分が最後までやり遂げられるものって何だろうと考えたんです」。辿り着いた答えは「やはりボクシングとちゃんと向き合ってみるしかない」だった。

 気持ちを新たに“3度目の正直”として再始動した。19歳時には兵庫県姫路市で行われた全日本実業団大会に出場した。しかし、結果は初戦で判定負け。観戦に訪れた母親には、厳しく叱責されるほどの内容で、まさに完敗だった。

 高松市の小さなジムでは、出場できる大会は当時、ほとんどなかった。それならばと石本は「アマチュアの世界を飛び出しプロを目指そう」と覚悟を決める。3度目の退会は、これまでのような後ろ向きな決断ではなかった。

 すぐに、東京でジムを探した。5軒ほど回ったうちのひとつが帝拳ジムだった。そこで目にしたのは、無心でサンドバックを打つ選手たちの姿だった。ジム内に乾いた音が響いていた。「それを見た時、聞いた時、ゾクッとしたんですよね」。石本は“ここであれば強くなれる”と直感した。現在は多くの世界チャンピオンを抱える帝拳ジムだが、当時、現役チャンピオンはひとりもいなかった。それでも理屈ではなく石本は自らの身体が反応したカンを信じて疑わなかった。

 それから2カ月後、石本は生まれ育った香川県を離れ、上京した。四畳半のアパートでひとり暮らしをしながらアルバイトで生計を立て、ジムに通う生活を始めた。いつか成功する日を夢見て――。「変な自信がありましたね。“やっていける。やっていくしかない”と。バイトとボクシング。どちらもやめるわけにはいかないという覚悟でした」

 5カ月後の7月にはプロテストに一発合格した。「それぐらいは余裕だと思っていました」という石本は、11月には後楽園ホールのリングでデビューを果たした。スーパーフライ級4回戦で判定勝利。デビュー戦を白星で飾ったものの、石本自身は内容に不満が残った。
「なんとか勝つことができましたが、2ラウンドぐらいでスタミナ切れ。恥ずかしい試合でした」

  伝説の王者とダブるスマートさ

 デビューしたばかりの頃、石本は東京の蕎麦屋でアルバイトをしていた。当時の店の常連客・米屋穣一は「若い人を応援するのが好きだったんです。彼はすごく真面目に働いていた」と石本に好印象を抱いていた。米屋は石本がボクシングをやっていることを知ると、デビュー2戦目を茨城・筑波まで観戦に訪れた。その試合も石本は判定勝ちした。

 この日、リングに上がったボクサー・石本を初めて見た米屋には、ある名選手がフラッシュバックしたという。その選手とは元世界フライ級チャンピオンの白井義男である。50年ほど前、米屋が10代前半の頃、白井のボクシングを生で見たことがあった。白井は“打たせないで打つ”というアウトボクサー、石本は同様に足を使いながらも機を見たら一気に畳み掛けるボクサーファイターと戦型は通ずる部分もあるが異なるものだ。それでも半世紀近く前の日本人初の世界王者の記憶が、石本を見て甦った。

「ボクシングの型が良かったんです。ケンカボクシングじゃなく、ボクサーらしい綺麗なボクシングでした」
 石本のリング上での佇まいやファイティングスタイル、その姿に米屋は惹かれた。石本のファンとなった米屋は、それ以降足しげく石本の試合に通うようになった。

 米屋に伝説のボクサーになぞらえられた石本だったが、なかなか陽の目を浴びることはできなかった。「何回も歯がゆい思いをしてきた」という石本。10年間、“その日”が来るまで牙を研ぎ続けていた――。

(第3回につづく)
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石本康隆(いしもと・やすたか)プロフィール>
1981年10月10日、香川県生まれ。中学2年でボクシングをはじめ、アマチュアでは1戦1敗。02年2月、20歳で上京し、帝拳ジムに入門する。同年7月にプロテストに合格し、11月に後楽園ホールでデビューを果たした。05年にはスーパーフライ級で東日本新人王決定戦準優勝。11年には、スーパーバンタム級で日本タイトル挑戦権獲得トーナメント“最強後楽園”で優勝し、日本タイトルへの挑戦権を奪取した。しかし、翌年2月の日本同級タイトルマッチでは判定で敗れ、ベルト獲得はならなかった。12年4月に、WBOインターナショナル・同級タイトルマッチで勝利し、王座を獲得。現在は、スーパーバンタム級でWBO世界7位、日本3位。右ボクサーファイター。29戦23勝(6KO)6敗。
>>ブログ「まぁーライオン日記〜最終章〜」



(文・写真/杉浦泰介)


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