これまで数々の五輪戦士を輩出している日本体育大学は、言わずと知れた体操界の名門である。現在、同大体操競技部の監督を務めているのが、OBでもある畠田好章だ。現役時代は1992年バルセロナ、96年アトランタと五輪2大会に出場した。バルセロナでは団体での銅メダルに貢献し、95年の世界選手権では3つの銀メダルを獲得するなど、世界の舞台で活躍した。現在は後進を指導する立場として、優れた人材を育成し、世界と戦う体操NIPPONを支えている。


 今年5月に行なわれた全日本選手権。上位36名が、今月8日に開催されるNHK杯への出場を決めた。全日本選手権とNHK杯は10月の世界選手権(中国・南寧)の代表選考会を兼ねており、2名に出場資格が与えられる。全日本の得点の半分を持ち点として、NHK杯の個人総合上位2名がその権利を手にする。ただし全日本で優勝した内村航平(KONAMI)は、4月のW杯で個人総合優勝しており既に世界選手権代表に内定済みだ。つまりNHK杯では内村を除く上位2名が南寧行きの切符を手にすることができる。全日本終了時点での2枠の選考レースは、野々村笙吾と加藤凌平の順大コンビがリードしている状況だ。

 畠田が監督を務める日体大にとっては、インカレのライバルでもある順大勢にリードを許していることになる。全日本での日体大のトップは4位の武田一志(4年)。ボーダーラインとなる3位の加藤との差は0.675点となっている。6位・岡準平(3年)、7位・神本雄也(2年)は1点近い差をつけられている。畠田も劣勢を認めている。だが、希望は捨てていない。

「上の2人(野々村、加藤)は安定しているので、なかなか逆転は難しい。展開的に厳しいと思いますが、ミスが絶対ないわけではない。まずは自分たちの演技をしっかりやるしかないですね。今回は世界選手権の代表だけでなく、アジア大会の代表も絡んでいます。選手たちには、まず日本代表になって欲しい」

 畠田が言うように、たとえ世界選手権の代表を逃したとしても、上位に入っていれば、ほぼ同時期に開催されるアジア競技大会(韓国・仁川)の出場権を得る可能性がある。「選手は日本代表に入れば、ひと皮もふた皮もむけられる」。そうした確信が畠田の胸の中にはある。「大舞台で(いい演技が)できた時には自信がつきますし、代表選手と一緒に合宿をして、内容の濃いトレーニングをすることだけでも大きい。失敗ができないような状況で、失敗をしない演技をするための練習を積むことができる。まわりの選手に引っ張られながら、その経験が次へとつながっていくんです」。それは畠田自らの経験に裏打ちされたものだった。

 楽しくて始めた体操競技

 畠田は徳島県鳴門市で、3人兄弟の末っ子として生まれた。父や兄2人は野球をやっていた。彼自身も友人と野球に興じることもあったが、小学2年の時に始めたのは体操競技だった。畠田は当時を振り返り、「ただ同じことをやりたくなかっただけだったのかもわからないですね」と笑う。直接のきっかけは通っていた小学校の教頭先生に勧められ、鳴門体操クラブを見学したことだった。元々、「跳んだり走ったりは得意」と運動神経には自信があった畠田。「楽しそうだったので始めた」という。理由は単純明快なものだった。

「回ったり、新しい技ができると面白いなと感じましたね。怖さもありましたが、人があまりできないことをやることが楽しかったんです」。すっかり体操競技の魅力にハマった畠田は、そこからメキメキと力をつけていった。小学6年で全日本ジュニア選手権の小学生の部で優勝するなど、その才能は際立っていた。当然、畠田には“金の卵”としての期待が集まった。しかし彼にとっては、五輪はまだ遠い存在に過ぎなかった。

 1984年、畠田が小学6年の時、ロサンゼルス五輪が開催され、体操では具志堅幸司が個人総合と種目別つり輪の金メダル2個を含む、計6個のメダルを獲得した。「具志堅先生が26、7歳の時でした。子供の僕から見たら、ずいぶんと大人に見えて、それぐらいの年齢までいかないとオリンピックや世界選手権には出られないんだなと思っていました」

 だが、周囲からの期待は膨らむばかりだった。畠田は自分の思いとのギャップに反発することもあった。
<中学生の時、僕は期待されるとやる気をなくした。練習、サボりたい時は絶対サボっていた。嫌いな技は覚えなかった。でも、体操はやめなかった。>
 これは畠田がアトランタ五輪に出場する頃に流れていた本人出演のCMのセリフだ。楽しくて始めた体操だったが、いつしか楽しいものではなくなっていた。それでも、畠田は体操から離れようとはしなかった。

(第2回につづく)

畠田好章(はたけだ・よしあき)プロフィール>
1972年5月12日、徳島県生まれ。小学2年で体操競技をはじめ、鳴門高校時代にインターハイ2連覇を達成。高校3年時、90年のアジア大会で初の代表入りを果たす。日本体育大学に進学後、92年のバルセロナ五輪に出場し、団体銅メダルに貢献した。93年の全日本選手権で個人総合初優勝。95年には2度目の優勝を果たした。同年の世界選手権では団体、鉄棒、あん馬でいずれも銀メダルを獲得。96年のアトランタ五輪にも出場した。2000年に現役を引退。指導者研修のための米国留学を経て、03年から日体大コーチとなり、内村航平をはじめとした数々のオリンピアンを指導した。



(文・写真/杉浦泰介)


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