「10年にひとりいるかどうかの逸材」。京都西山高校で3年間、長崎望未を指導した吉田茂樹(現龍谷大監督)は彼女をそう絶賛する。「運動能力が高く、バッティングは器用で何でもできた。打撃に関しては、天性のものを持っていました。タイプは違いますが、同じ左バッターだったら狩野亜由美(現豊田自動織機シャイニングベガ)も並のセンスじゃなかった。そんな彼女よりも上だと思います」。同校のOGであり、日本代表の1番打者として、北京五輪の金メダル獲得に貢献した狩野を凌ぐほどのセンスだったという。高校時代、長崎はその類稀なる才能を如何なく発揮した。


 全国大会常連校の京都西山で、長崎は1年時からレギュラーの座を掴んだ。埼玉での全国高校総合体育大会(インターハイ)では、主に5番センターを任された。当時を振り返り、「吉田先生が思い切って使ってくれた」と本人は感謝する。吉田は「チームへの貢献度は大きかった。インターハイ決勝では直接打点は挙げていませんが、先制点のお膳立てをしてくれました」と、インターハイでの長崎の活躍を称えた。

 白鴎大足利(栃木)との決勝では、1回裏2死二、三塁の場面で長崎に打席が回ってきた。彼女は鋭いスイングで相手ピッチャーに脅威を与える。コントロールがバラついたピッチャーのボールを、長崎は冷静に見極め、四球を選んだ。満塁とチャンスを広げた京都西山は、後続の打者が2点タイムリーを放ち、2点を先制した。3回表に1点を返されたものの、そのまま2対1のスコアで逃げ切った。長崎が初めて経験する全国優勝は、京都西山にとっては初のインターハイ制覇となった。この年は国民体育大会も制するなど、充実したシーズンを送った。しかし、翌年に試練が訪れる。

 “悲鳴”を上げた両手

 2009年夏、奈良インターハイを前にして、長崎は故障を抱えていた。
「両手首はバットを振るだけで痛くて、それだけで毎日涙が出ました。それでもバットを振るのをやめることはできなかった。試合に出ていない先輩が『頑張ってね』と私を応援してくれていたので、 “その先輩方に応えるためにも頑張らないといけない”という強い思いがあったんです」

 京都府予選、インターハイと、長崎は痛みを押して、プレーを続けた。京都西山はインターハイ連覇に向けて順調に勝ち進んだ。しかし、準々決勝で須磨ノ浦女子(兵庫)に0対1で惜敗。V2の夢は途絶えた。さらに、この試合の打席で長崎に悲劇が起こった。
「ファウルチップを打った時に右手から変な音がしたんです。“これは折れたな”と。グローブをはめるのにも激痛が走り、この時は“もうソフトボールはできないんじゃないか”と思いました」

 検査の結果、右手甲と左掌の骨の一部がそれぞれ欠けた。右手首の骨は削がれて尖がった状態になっていた。吉田は「バットスイングがかなり速い分相当な負担がかかっていたんだと思います」と見るように、力強いスイングを持つがゆえのケガだった。

 結局、長崎は手術をして復帰するまで3カ月を要した。
「ケガをしている間は何もできないし、すごく落ち込みましたね。でも、この経験を経て、“もっと強くならなきゃ”という気持ちになりました」
 雑草のように踏みつけられても、立ち上がる逞しさが彼女には備わっていた。復帰後も主軸を任された。
「勝負強さは抜群。ここで打って欲しいという場面できっちり仕事をしてくれました」と、吉田は教え子の成長ぶりに頼もしさを覚えるほどだった。
 翌春の全国私学選抜大会では準優勝。最後のインターハイは2回戦敗退に終わったものの、クリーンアップとしてチームを牽引した。

 高校3年間を振り返り、長崎は言う。
「吉田先生からは常に『心を豊かにしろ』と言われてきました。3年間で技術面だけでなく、精神面も大きく育ててもらいました。人間的にも成長できたことで、プレー自体にいい影響があった。すごく感謝しています」
 そして、“この先生の元でやれば実業団に行ける”。3年前の直感は現実のものとなる。

「人と違うことがしたかった」

 京都西山で3年間主力としてプレーした長崎は、複数の実業団から誘いを受けた。その中から選んだチームは、その年の日本リーグを制した名門トヨタ自動車レッドテリアーズだった。彼女がトヨタ自動車に決めた理由は「人と違うことがしたかった」からだ。

「それまで京都西山からトヨタに行く選手がいなかったので、後輩につなぐような架け橋になれたらいいかなと思ったんです。高校へ進むときも、愛媛から出て行く子はほとんどもいなかった。私は人と違うことをしたいんです」

 小学生の頃から夢見ていた実業団への道。“なりたい”では“なる”と発することで、自分を震い立たせてきた。目標に辿り着いた後も、長崎は立ち止まることはなかった。
「1年目だからといって、ナメられるのはすごく嫌だった。だから打席に立つ時も、リーグでしっかり結果を残して“名前をここに残していきたい”という気持ちで臨みました」

 日本リーグデビューとなった開幕節の日立ソフトウェア戦。レギュラーの選手がケガをしていたこともあり、長崎は下位ながらスターティングメンバーに名を連ねた。しかし結果は3打数ノーヒット。それでも彼女が下を向くことはなかった。
「実業団は高校の試合の雰囲気とは全然違いました。“こういうところで試合をしていくんだ”と。でも3打席打てなかったからといって気落ちするのではなく、“この世界でやっていくんだ”という感じで気が引き締まりました。むしろワクワクしましたね。それまでは応援と言うと、ほとんど親しかいなかった。それが日本リーグになると、会社全体で応援してくださったり、チームのファンがいてくれる。それがすごく有難い」
 実業団の壁は微塵も感じなかった。長崎の視線は上を向いていた。

 次節からは5番を任され、第3節のシオノギ製薬戦では初ホームランが飛び出した。長崎の感触的には詰まり気味。決していい当たりではなかったが、ボールはセンターの頭上を越え、フェンスオーバーした。彼女のバットスイングの強さが表れた一打だった。その後も主軸としてチームを支えた。

 このシーズンは打率3割5分3厘、5本塁打、22打点をマーク。ホームラン王と打点王の2冠に輝いた。トヨタ自動車の連覇に貢献し、新人賞とベストナインにも選出された。新人での4冠は山田恵里(日立)以来の快挙だった。

 直面した“2年目のジンクス”

 しかし翌年は “2年目のジンクス”が長崎を襲った。いつも“普通”を心がける彼女だが、「普通じゃなかった」シーズンだった。

 その原因は「勇気がなかったから」と言う。
「そんなに気負っていたつもりはなかったんです。でも、1年目で成績を残して、相手も違う対応をしてくるだろうと、変に考え過ぎていたんだと思います。それで振る勇気だったり、見逃す勇気がなかった」

 持ち味である打席での思い切りの良さが失われていた。中途半端な気持ちのままでは、自分の“間”は作れない。チームはリーグ戦を20勝2敗という圧倒的な戦績で首位を独走したが、長崎はその波に乗ることはできなかった。スタメンを外されることもあり、打率2割4分5厘、1本塁打、7打点。打撃3部門すべてにおいて成績は下降した。

 だが、そのままリーグ戦の不調を引きずらないのが、長崎の修正能力の高さである。プレーオフトーナメントの準決勝の豊田自動織機戦では、カナダ代表のダニエル・ローリーからライトへ先制弾を叩き込んだ。長崎の活躍もあって、チームは3対1で勝利し、決勝進出を果たした。トヨタ自動車はルネサスエレクトロニクス高崎との決勝を1対0のサヨナラ勝ちで史上初の3連覇を達成。長崎は苦しんだシーズンをなんとか笑顔で締めることができた。そして更なる高みを目指す彼女は、翌シーズンの飛躍を胸に誓った。

(最終回につづく)
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長崎望未(ながさき・のぞみ)プロフィール>
1992年6月19日、愛媛県生まれ。小学3年でソフトボールを始め、京都西山高時代には1年からレギュラーを掴み、全国高校総合体育大会、国民体育大会で優勝する。11年にトヨタ自動車に入社。高卒1年目で日本リーグの本塁打王と打点王の2冠を獲得し、リーグ連覇の立役者となった。ベストナインと新人賞に輝く。同年の世界ジュニア選手権に出場し、主軸として準優勝に貢献した。13年には日本リーグタイ記録となる28打点を挙げ、打点王に輝く。2年ぶりにベストナインにも選出された。14年は初のフル代表入りを果たし、世界選手権とアジア競技大会での優勝を経験。日本リーグでは決勝トーナメントでMVPに輝く活躍で、優勝に導いた。身長160センチ。左投左打。背番号「8」。

(文・写真/杉浦泰介)




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