「とにかく、プロになるまでは帰れないと思っていました。成人式も愛媛には戻らなかったんです」
 マッハ道場に入門後、同級生がキャンパスライフを満喫している時期、中村ジュニアはただひたすら格闘技に打ちこんだ。
 優勝してのプロ入り、新人王

 柔道とレスリングに取り組んできた高卒新人にとって、最初の大きな壁は打撃だった。
「最初は全く当たらないし、距離感もわからないので、もらうことも多かったんです」

 スパーリングパートナーを務める中村トッシーは入門時の印象を次のように明かす。
「柔道とレスリングの経験者ですから、当然、総合格闘技でもやっていく力はあると感じました。ただ、打撃は未経験だったのでスタイルは磨いていく必要がありましたね」

 修斗のプロになるには年に1度開催される全日本アマチュア選手権で上位入賞を果たす必要がある。石の上にも3年。中村は3年目に出場した全日本アマのライト級で見事に優勝を収めた。

 2010年2月、プロデビュー。最初の2戦を快勝するなど、順調なスタートを切った。翌11年の新人王をかけたトーナメントでも順調に勝ち上がり、決勝進出を決めた。相手は全日本アマのウェルター級を制してプロ入りした加藤忠治。180センチと体格、リーチで上回る強敵に中村は果敢に突っ込み、接近戦を挑む。

 間合いをとって戦おうとする加藤との攻防は文字通りの一進一退。既定の2Rを終えても判定で決着はつかず、延長ラウンドに突入した。

「ここで勝つか、勝たないかで人生が変わる」
 中村は渾身の力を振り絞って、相手に襲い掛かった。テイクダウンを奪い、顔面にパンチを振り下ろす。弱ったところで肩固めを極め、一本を奪った。新人王。プロとしての前途を明るく照らす称号を自らのものとした。

 自らのスタイルを確立

 ところが……。一気に王者への道を突き進むかと思われた中村に試練が訪れる。翌年5月、7月と立て続けに連敗。「負けはすべてを否定されること」と語る本人にとって、続けての敗戦は“絶望”を意味していた。

 輝きを失いかけていた若者に救いの手を差し伸べたのが師匠の桜井“マッハ”速人だ。
「ライト級の選手は皆、ジュニアより体が大きい。まともに戦ったらやられてしまうんです」
 小よく大を制すには、どうすべきか。背の低さを生かし、素早く懐に潜り込んで距離を縮める。このスタイルを桜井は徹底して伝授した。

「その頃のジュニアは良くも悪くも教科書通りの戦い方でした」
 モデルチェンジに付き合った中村トッシーは当時を振り返る。
「もちろん基本は大切で、これがしっかりできていたからこそ、ジュニアは強くなったことは間違いありません。ただ、ある程度のレベルに行くと応用も求められる。相手からしてみれば、基本通りの動き方しかしないなら対処しやすいんです。何か強みを生かしたオリジナルの武器がないと壁は打ち破れない時期にきていました」

 桜井らの指導を受け、中村は低いタックルに磨きをかけた。
「格闘技に対する考え方も変わった時期かなという気がしますね」
 自己変革の日々を本人はそうとらえている。

「次に負けて3連敗したら、格闘技はやめなきゃいけないと思っていました。単に理想を追い求めるのではなく、自分の現状を踏まえて勝つためには何をしなくちゃいけないか。勝つことだけを、より考えるようになりましたね」

 161センチの体格は弱点であり、長所でもある。小柄なファイターは相手からしてみれば、的が小さく捕まえにくい。打撃をかいくぐり、鋭いタックルから相手を豪快に持ち上げ、テイクダウンする。過去に取り組んだレスリングと柔道の技をミックスさせ、代名詞ともいえるスタイルを確立した中村は、そこから修斗で3連勝を収める。

 他団体の試合にも参戦し、1敗を挟んで4連勝。世界ランカーとなり、いよいよタイトル挑戦の機会が巡ってきた。環太平洋ライト級王座である。ベルトをかけて顔を合わせたのは、格闘技界のレジェンド、宇野薫だった。 

(最終回につづく)
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中村ジュニア(なかむら・じゅにあ)プロフィール>
1988年6月29日、愛媛県宇和島市生まれ。本名・中村好史。小中高と柔道に取り組む。格闘技に憧れ、宇和島東高時代にはレスリングも学び、卒業後に上京。桜井“マッハ”速人が主宰するマッハ道場に入門する。09年の全日本アマチュア修斗選手権ではライト級優勝。10年2月にプロデビューを果たす。11年12月には新人王決定トーナメントを制した。15年1月には環太平洋ライト級王座決定戦に臨み、宇野薫を下して第6代王者に。修斗でのプロ戦績は16戦9勝(1S)6敗1分。身長161センチ。




(文・写真:石田洋之)


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