各選手がスタートラインに立ち、レーンごとに名前をコールされる。陸上競技のトラック種目ではありふれた光景だ。自らの番が回ってくると、彼女は満面の笑みを浮かべ、手を挙げる。一礼した後も、その生き生きとした表情が解かれることはない。
 彼女の名は伊藤愛里。住友電工陸上競技部に所属する100メートルハードラーだ。本人によれば、屈託のない笑顔は、自然と生まれるものだという。
「レースが本当に楽しいんですよね。私自身が意識しているというよりも、会場の皆さんに鼓舞されて、“やれるかもしれん”という気持ちが湧いてくるんです」
 武器は巧さと勝負強さ

 伊藤が主戦場とする女子100メートルハードルという種目は、直線上に高さ84センチの障害が10台並ぶ。そのハードルを跳び越えつつ、ゴールラインを走り抜ける速さを競う。1台目のハードルまでは13メートルの距離があり、そこから8.5メートル間隔で残りの9台が設置されている。

 号砲が撃ち鳴らされ、選手たちは一斉に飛び出す。伊藤の見せ場は、レースの終盤だ。滑らかなハードリングで、スーッと伸びていく。勢いよく駆け出したライバルたちを颯爽と追い抜いていく――。

 伊藤の特長である後半の伸びは、ハードルでの減速率が小さいことの証左である。つまりはハードリングの巧さと言い表してもいい。
 日本陸上競技連盟の櫻井健一ハードル強化部長は「ハードリングは高いレベルのものを持っていて、技術的には日本のトップ選手たちとも大差はないです。加えて、伊藤選手には勝負強さもありますね」と高く評価する。

 彼女の自己ベストは13秒27。このタイムは日本歴代トップ10に入らない記録だが、それでも伊藤は日本選手権で、毎年上位に名を連ねている。全日本実業団対抗選手権を3度、国民体育大会を1度制しており、櫻井が認める彼女の「勝負強さ」が発揮された結果と言えよう。

 環境を楽しむ逞しさ

 2012年の春から伊藤は住友電工に入社し、自動車や家電製品などの部品を作る同グループの住友電工焼結合金株式会社に所属している。開発や設計を行う部署で、彼女はコンピュータを使い、図面を描くこともあるという。陸上の練習は午後3時から、社会人生活と陸上競技選手の両立は簡単なことではない。しかし、モノづくりが好きだったことと、セカンドキャリアを考え、伊藤はあえて厳しい実業団の道を選んだ。

 そのことに後悔はない。むしろ「どちらも楽しいんです」と語る彼女の明るい表情を見ていると、困難とすら思っていないようにも映る。仕事と競技、それぞれが相乗効果を生み、プラスに働いているという。
「もし1つだけに絞っていたら、ポキッと心が折れちゃった時に、どうしようもなくなる。でも、お仕事があれば、“こっちもしなきゃアカン”と気持ちを切り替える時間が作れます。その間に陸上への気持ちもググッと回復できるんです。逆に仕事で悩んでいても、身体を動かすことでスッキリすることもありますね」

 伊藤はコーチングスタッフにアドバイスを受けながら、自ら練習メニューを作成する。それを実践し、レースへと臨むプロセスが彼女は好きなのだ。
「だって自分が考えたことが合っているかどうか、自分で答え合わせをできるわけですよね。その作業はとても楽しいんです」
 そう言って、彼女は笑う。その“答え合わせ”を楽しんでいることは、レースでスタート直前に見せる朗らかな顔が証明している。試行錯誤しながら、自問自答をする。点と点が線になる瞬間を求め、伊藤は競技を続けている。

 彼女が陸上生活をスタートしたのは、中学生になってからである。それまではバスケットボールやドッヂボールなどの球技をやっていた。実は部活動見学までは、テニス部に入るつもりだったという。だが伊藤が入部届を出したのは陸上部。乙女の気持ちが傾いた理由には、“甘い誘惑”があった――。

(第2回につづく)

伊藤愛里(いとう・あいり)プロフィール>
 1989年7月5日、愛媛県松山市生まれ。中学で陸上競技をはじめ、1年時の秋に100メートルハードルを専門種目とする。済美高2年時の全国高校総合体育大会では同種目で4位に入賞した。関西大学進学後は、2年時から関西学生対校選手権で3連覇を達成。4年時の全日本学生対校選手権では初優勝し、アジア選手権やユニバーシアードと国際大会にも出場した。12年、住友電工に入社。1年目から全日本実業団対抗選手権を3連覇すると、昨年秋の長崎国民体育大会では成年女子の部で初優勝した。身長165センチ。自己ベストは13秒27。

(文・写真/杉浦泰介)




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