78試合、打率.200、1本塁打、15打点。
 それがルーキーイヤーの2軍での和田恋の成績である。主にサードで起用され、育成の1年を過ごした。
「1年間、プロの世界を経験できたことは一番良かったですね。守備もバッティングも走塁も成長できた部分を感じることができました」
 プロで戸惑った「スピード」 

 アマチュアとプロの違い――NPBのユニホームを着た選手は誰もが、その壁に直面する。和田が真っ先に感じたのは「スピード」だった。
「ピッチャーが投げるボールのスピードも、全体的なプレーのスピードも違う。最初は全然対応できなかったですね」

 打席ではとらえたと思ってバットを振っても速球にさしこまれた。最初に衝撃を受けたのは、春の教育リーグで対戦した北海道日本ハムの増井浩俊だ。セットアッパーとして最優秀中継ぎのタイトルを獲得したこともある右腕が、開幕への調整で2軍のマウンドに上がったのだ。

「150キロちょいのボールを投げるのをテレビでも見たことがありましたが、実際に打席に立つと本当に速く感じましたね」

 守りでも、サードに飛んでくる打球の速さに面喰った。右バッターの引っ張った打球がアッという間に自らのすぐ脇を抜けていく。「反応できずに、だいぶやられましたね」と和田は苦笑いしながら振り返る。
 
「1年やって、だいぶボールも見えるようになってきましたね」
 徐々にプロの水に順応した1年目を終え、迎えた秋季キャンプ。和田は思いもよらぬ打診を受けた。

「キャッチャーをやってみないか」
 言葉の主は原辰徳監督だった。同席した岡崎郁2軍監督もキャッチャー挑戦を勧めた。

 原監督からのアドバイス

 巨人は長年、ホームベースを守ってきた阿部慎之助の一塁転向が決まり、扇の要となるポジションの強化が急務だった。そこで高校時代、ピッチャー経験もあって肩が強く、打力もある和田の適性をチェックすることになったのだ。

「ビックリしたんですけど、監督も勧めてくれたんで、1度はチャレンジしてみようと思いました」
 野球を始めてからキャッチャー経験は皆無。初めてのキャッチャーミットを片手に、プロテクターをつけ、バッテリーコーチからキャッチングにスローイングを一から教わった。

 そんな転向初日、和田は非凡なところをみせる。二塁へのスローイングのタイム測定。見よう見まねで補球から矢のような送球をみせると、本職のキャッチャー陣を差し置いてトップの数値を記録したのだ。その後も約2週間、19歳はキャッチャーとして練習に励んだ。

 結局、本格転向は見送りになったものの、キャッチャー体験は和田にとって回り道にはなっていない。
「キャッチャーは下半身強化のトレーニングがものすごく多かったんです。毎日やるのはキツかったですけど、これはバッティングにも内野の守備にも生きてくると感じました」

 鉄は熱いうちに打て、若い時の苦労は買ってでもしろ、と言われる。土台となる下半身を鍛えたことは、内野手に戻った今季、確実に役立っている。

 この春の宮崎キャンプでは原監督から直接、バッティング指導を受ける機会もあった。
「言葉でうまく説明するのは難しいのですが、“体幹や丹田を意識しろ”といったことを言われました。独特の感覚なので、すぐに理解するのは難しいですけど、そういう考え方もあるんだなと勉強になりました」

 1軍の監督が2軍での実績も浅い選手にキャッチャー転向を促したり、直々にアドバイスを送るのは、それだけ和田の素材に“恋”こがれている証拠である。首脳陣の大きな期待を前進のエネルギーに変え、必ずや近い将来、結果で応える。

(第3回へつづく)
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和田恋(わだ・れん)プロフィール>
 1995年9月26日、高知県土佐郡土佐町出身。父と兄の影響で野球を始め、小学時代は軟式野球の嶺北ジュニアに所属。高知中ではショート兼ピッチャー。高知高では1年夏からレギュラーに。サード兼ピッチャーで2年春、3年春と甲子園に出場。3年時はベスト4に進出し、準決勝で済美高の安樂智大(現東北楽天)からホームランを放つ。高校時代は通算55本塁打。13年のドラフト会議で巨人から2位指名を受けて入団。将来の中軸として期待され、1年目の昨季は2軍で78試合に出場し、打率.200、1本塁打、15打点。今季は開幕から2軍の4番を務める。サードに加え、ショート、セカンド、ファーストと内野ならどこでも守る。180センチ、84キロ。右投右打。背番号61。




(文・写真:石田洋之)


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