二宮: 太田さんといえば、「日本一のフェラーリ遣い」と呼ばれ、数々のレースで活躍されました。レーシングドライバーとして脂が乗り切っていた98年、富士スピードウェイで行われた全日本GT選手で多重事故に巻き込まれ、瀕死の重傷を負われた。僕は当時、ニュースであの事故を知りましたが、非常に衝撃を受けた。あの時の記憶はあるんですか?
太田: 事故から9年が経ちますが、辛かった記憶というのは、どんどんなくなっていきますね。
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二宮: 再起までの道のりを描かれた著書『クラッシュ』はベストセラーにもなりましたね。ビデオで見た事故の印象は?
太田: 『クラッシュ』は、事故から2年くらい経って書き始めたんですが、そのときにはけっこう忘れていましたね。看護記録や家内がつけていた日記を見て「へぇ、オレ、こんなに荒れていたんだ」と。そういうのを検証しながら、書き進めていきました。人間って、本当に辛いことは忘れていくようにできているのかな、と。

二宮: あらためてお伺いしますが、あの爆発はどのように起きたんでしょうか?
太田: 多重事故が起きているのがわかって、僕は衝突をよけようと安全地帯に逃げ込んだんです。そうしたら前方にクラッシュしたポルシェがいたので、正面衝突を避けるために車をスピンさせた。それはうまくいったのですが、ポルシェの燃料タンクが割れてむき出しになっていた。そこに僕の車が接触して爆発しました。車をスピンさせて、「カシャン」と音がしたところまでは覚えていますが、その後は意識がなかったので、火は見ていないんです。

二宮: いつ意識が戻ったんですか?
太田: 事故から10日目くらいですね。実際には3日目の時点で「72時間の生命」と言われていたそうです。どうせダメなら、最新設備の整った良い病院に搬送しようと、東京女子医大付属病院に搬送され、手術はうまくいったんですが、意識が戻らない。ドクターから「ここは病院です。あなたは助けられました」と呼びかけられても、意識がボーッとして、わからないんです。僕を呼ぶドクターや家族の声がずっとテープで流されていて、それが人の声だとわかってきたのが、2、3週間くらい経った頃です。「全治3年」と言われて、3年間の療養生活。実際には治療は5年くらいかかりました。

 黒いマントの男が……

二宮: よく聞くのが、死に直面した人は「三途の川を見る」と。そういう経験は?
太田: 臨死体験みたいなものはありましたね。黒いマントを着た男の人が現れて、「少し若いけど、君は濃い人生を送った」と言われました。その人に肩を抱かれて坂を下りて行くんです。「濃い人生を送った」という言葉に、穏やかな気持ちになって……そのときに観客席の歓声のような「オオタさん!」と自分を呼ぶ声が聞こえたんです。その声に、引き戻されたんですよね。

二宮: 観客席の声が聞こえなかったら、そのまま逝っていたかもしれない?
太田: 僕はあまりスピリチュアルなことを信じないんですけど、そうかもしれませんよね。観客席からの歓声は実際に聞こえていたのかもしれません。

二宮: レース前に悪い予感みたいなものは?
太田: ありましたね。それまでレースを16年くらいやっていましたけど、走る前に「今日は嫌だなァ…」と。今日の雨はヤバいんじゃないか、と。雨の量が多すぎました。当時の富士スピードウェイはストレート上に水たまりができるんですよ。そうすると、ものすごく滑りやすいんですよね。ストレートを走っていてもスピンしてしまう。ただ、プロですから、スポンサーもついているし「今日はヤバいからやめます」というわけにはいかない(笑)。主催者も判断は難しいところですよね。興行だから、やらざるを得ない。やる以上は僕たちも出ないといけないし、出る以上は速く走らないといけない。そこの難しさですよね。

二宮: あの事故をきっかけに、レースは随分、改善されましたよね。
太田: 富士スピードウェイは全面改修されて、安全なコースになりましたね。救急の体制も改善された。それまで構造的な問題として、オフィシャルとドライバー、あるいはチームが一緒に何かをやるという動きがなかったんですね。お互いに話し合いをすることがなかった。でもこういう大きな事故が起きたことで、皆で話し合いをしてルールを改善しよう、と。そういう動きが出たというのは良いことでしたね。

 一度死んで、ゼロからスタートした

二宮: 事故から9年ですが、ここまで長かったでしょう?
太田: そりゃあ、長かったですよね。することがなくて、ずっと家にいるわけですから。それはもう、長く感じるし、それまで家から出られない生活なんて送ったことがありませんでしたから。一番辛かったのは、事故のときじゃなくて、事故の後、療養期間ですね。

二宮: 事故に遭われたのは38歳のとき。人生はまだこれからのときですよね。
太田: 本当に自分では上り坂のときでしたね。耐久レースはけっこう選手寿命が長いんです。チームを立ち上げて、自分としてはレーサーとしてやるのと同時に、チームオーナーとしても、その先の将来図がだいたい描けてきた矢先だった。そこであの事故に遭って「全治3年間」と。3年間も療養したら仕事なんてなくなっちゃうじゃないですか。その後、戻れるかもわからない。やっぱりきつかったですね。

二宮: 俺は助かったんだ、というよりも、これから大変だという気持ちの方が強かった?
太田: 当時は、「助かってよかった」という感覚はなかったですね。あの時に死んでいれば、華々しく終わったのに、残された人生をどう生きればいいんだ、と。子供も2人いましたから家族に対する責任もある、でも社会には戻れやしない…。やっぱり、身体にダメージがあると心もダメージを負いますよね。当時は、精神も荒廃しているから、ドクターや助けてくれた人たち、関係者に対して、逆恨みの感情まで抱いていましたね。良かったのは、担当のドクターに恵まれたことですね。厳しい方でもあったんですけど、僕を社会に戻そうという意識を強く持ってくださっていた。今はもちろん関わってくれたみんなに対して心から感謝しています。

二宮: インタビュー記事の中で、事故の後、「人に優しくなれた」とおっしゃっていますね。
太田: 事故のシーンを見て、あらためてひどい事故だったな、と。絶望の中で、自分は1回死んだんだ、と思ったわけです。それまでは、プライドや自分がやってきたことがあるから「すべてを失った」という気持ちが強かった。でも「自分は1回死んで、ゼロからのスタートなんだ」と気持ちを切り替えたことによって、逆に人生は面白いな、と思うようになった。今、原稿を書いたり、表に出たり、仕事で辛いなと思うことがあっても、ふと「こういう仕事ができるようになったんだな」と。そう思うと生まれてきたことはすごくラッキーだな、と。

 トラウマを避けちゃいけない

二宮: そうやって気持ちを切り替えられるまでには、何年くらいかかりました?
太田: まず、現実を受け入れるのに1年ですね。最初は受け入れられませんでしたから。1年くらい経って、やっと自分はどうやって生きようか、と。そして仕事をするようになったのが3年から5年ですね。

二宮: その後、サーキットに復帰されたのがすごい。またステアリングを握るのは怖くなかったですか?
太田: 復帰といってもアマチュアに毛が生えたくらいのレベルですけどね。でも最初にサーキットを走ったときは、本当に嫌だった。車には乗れるようになっていたけど、実際にサーキットを見たら、鳥肌が立ってきちゃった。理屈じゃない、もう身体が怖がっているんですよね。事故から2年くらい経った頃かな。病院のシーンが頭の中に甦ってきて「これは走れないな」と……。

二宮: 事故がトラウマになって、身体が拒否しているんですね。
太田: フェラーリのイベントで、事故後初めて富士スピードウェイに行ったときも、前日にいきなり原因不明の39度の熱が出たんです。すぐに病院に行ってドクターに診てもらったら「入院しろ」と言われた。「こんなに急激に熱が出るのはおかしい。何か変な病気かもしれない」と。でも当日、会場に行って観客席から事故現場を見て、選手たちに会ったりしていたら、いつのまにか熱が下がってきて、夕方には平熱に戻っていた。トラウマだったんでしょうけど、実際に行ったらたいしたことがなくて、夕方には熱が下がったんですね。

二宮: 最初にサーキットを走られたときはいかがでした?
太田: 筑波サーキットでしたが、走っているうちに、ゴツゴツした感覚やGがかかるじゃないですか。スピードを上げると「どうやって速く走ろう」と集中して、怖さがだんだん減ってきた。だから、トラウマがあっても、避けちゃいけないと思うようになりましたね。
 レースの話ですが、F3000で280キロくらいスピードが出る鈴鹿の130Rコーナーで、最初は誰も全開で行けなかった。でも、ジョニー・ハーバートが全開で行き出したら、みんなが行けるようになった。最初は誰もが怖いんですよね。でも誰か一人ができれば、自分もそれに続くんです。

二宮: 要するに、人間の限界は人間が決めているんでしょうね。
太田: そこにあるのは、人間の恐怖ですよね。持論ですが、恐怖には2種類あると思うんです。本当に危ない恐怖と、本当は危なくないけど自分で決めている恐怖。“見えないおばけ”のように正体がわかれば、怖くはない。トラウマになることがあっても、それを再体験して、たいしたことがないんだと身体に教えれば克服できるんだなと思いましたね。 

(続く)

太田哲也(おおた・てつや)プロフィール
1959年11月6日、群馬県生まれ。82年レースデビュー。93年より4年連続でル・マン24時間レースにフェラーリで出場し、フェラーリ本社にも認められる存在となる。98年5月3日、全日本GT選手権第2戦でレース中に多重事故に巻き込まれ瀕死の重傷を負う。治療とリハビリを続け、事故から2年半後、サーキットへ復帰。2001年、事故から復帰までを自らが綴った本『クラッシュ』を出版、ベストセラーになる。また、03年には映画『クラッシュ』が公開される。同年6月、著書『リバース』出版。現在、レーシングドライバーとして活躍するほか、執筆活動、講演など多方面に活躍。
★太田哲也公式サイト『KEEP ON RACING』

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