
人生はいくつもの偶然が重なりあってできている。
東京ヤクルトにドラフト3位で入団した秋吉亮にとって、ピッチャーを始めたのは偶然だった。中学時代は主にキャッチャー、高校に入っても1年夏はファースト。それが新チームにピッチャーがいないという事情で転向を命じられたのだ。
「中学時代、バッテリーを組んでピッチャーをやっていた同級生がキャッチャーになって、僕が逆にピッチャーになったんです」
(写真:今をときめく88年世代。「やっと同じ土俵に立てた。早く追いつきたい」と力を込める) 都足立新田高で秋吉を指導した当時の監督、畠中陽一はピッチャーを勧めた理由を次のように明かす。
「秋吉は入学当初はまだ小さかったんですが、ご両親の背丈が大きかったので、将来大きくなるんじゃないかと思ったんです。そしてスローイングのコントロールがいい。2年かけて育てれば軸になってくれるのではないかと感じました」
だが、新チームになってからの練習試合、オーバースローで放る秋吉は投げても投げても結果が出なかった。
「典型的な手投げでしたね。体幹が前に出てこないうちに手だけで放ってしまう。コントロールはそこそこなのにボールに力がなかった……」
見るに見かねた畠中は、ひとつの提案をする。
「アンダー気味に腕を下げて練習してみろ」
腕を下げて放ろうとすれば、体重移動をしないとまともに投げられない。重心が前に移動するのにつられて、腕がムチのようにしなって出てくるように投げる。ピッチングにおける基本的な体の使い方を覚えてもらうのが練習の狙いだった。
だが、ここでまたも偶然が起きる。
「アンダー気味に投げてみるとスライダーが良く曲がって、いいボールが投げられたんです」
秋吉本人も驚くほどの変化だった。当初はオーバースローに戻すことを前提で取り組んだ練習が、意外な方向に転がったのだ。シートバッティングでもチームメイトから「ボールが見にくい」と言われ、そのままのフォームに。ピッチャーとしての道が開けた。
体力面を陸上部と一緒のランニングメニューで強化し、練習後も畠中とつきっきりでシャドーピッチングを繰り返した。その甲斐あって2年からは主戦投手となり、秋には東京都大会で早稲田実業の斎藤佑樹(現北海道日本ハム)と投げ合った。1−3で敗れたものの、5回までは無失点の好投をみせた。
「その後、甲子園にも出たチームと互角の勝負ができたことは自信になりましたね」
迎えた3年夏は東東京大会で3試合連続完封。甲子園出場の夢は私立の名門・帝京高に阻まれたが、無名の都立高が創設初のベスト4まで勝ち上がる立役者となった。
高校卒業後は中央学院大へ進学。しかし、そこで秋吉は大きな壁にぶつかる。球威不足だ。130キロ台のストレートは大学では通用しなかった。ここでも秋吉は偶然の発見から壁を乗り越える。
「ちょっと腕を上げてみたら、ボールに勢いが出るかもしれない」
アンダースロー気味だった投げ方を、試しにサイドスローへ変えてみた。球威が増し、スピードも140キロ台が出るようになった。軟投派から力投派へ脱皮した瞬間だった。大学でも中心選手となった秋吉は4年春には千葉県大学リーグで5勝1敗、防御率0.84の好成績をあげ、優勝に貢献。MVP、最多勝、最多奪三振、最優秀防御率のタイトルに輝いた。その後の大学選手権では初戦の九州共立大戦で自己最速の148キロを記録。9回をわずか2安打に封じ、完封勝利を収めた。
一躍、全国でも名前を知られる存在になり、社会人は強豪のパナソニックへ入社。2年目にはエース格として、都市対抗野球ベスト8、日本選手権ベスト4進出の原動力となる。プロのスカウトからも大いに注目され始めた。だが、秋吉は会社と相談の上、もう1年、チームに残留することを決意する。
「結果的には社会人に残って良かったですね。去年よりレベルアップした状態でプロに行けると思っています」
力任せに投げ、失投を痛打される欠点を見直し、緩急をつけるべくチェンジアップに磨きをかけた。秋吉のチェンジアップはツーシームの握りから中指を浮かせ、人差し指と薬指で挟み込んで投げる。このボールを1年間で自在に操れるようになった。今ではフォークのように落として空振りを奪うことも、少し沈めてバットの芯を外し、ゴロを打たせることもできる。スライダーとともに大きな武器が完成した。
3年間の集大成とも言えるのが、この秋の日本選手権だ。1回戦、前年覇者のJX-ENEOSに対し、10安打を浴びながらも9回途中まで無失点に封じた。虎の子の1点を守り切って1−0の勝利。「前年の都市対抗でENEOSには集中打を浴びて負けていたんです。去年の自分ならランナーが溜まったところで失投を打たれて大量失点するパターンだったでしょうね。走者を背負っても粘ってコーナーを突き、要所を締められたところがいい結果につながりました」と本人も成長を実感するマウンドになった。

偶然にもヤクルトはサイドスローで黄金時代の守護神を務めた高津臣吾投手コーチが就任した。秋吉が横手投げにするにあたり、大いに参考にしたのが高津の投球フォームだった。
「高校時代、神宮球場で高津さんが投げているのを外野スタンドから見ていたんです。今回、その高津さんがコーチになったヤクルトに入ることになって不思議な縁を感じています」
高津コーチからは、もちろん伝家の宝刀シンカーを教わるつもりだ。
(写真:入団発表では「2日前に考えた」というサインを書いてファンにプレゼントした)「まずは開幕1軍に残ること。そうしないと何も始まらない。そして1年間投げ続けること。これが目標です」
先発、中継ぎ、どちらでもいくつもりだが、強いていえば「勝ちパターンで毎試合任されるピッチャー」を目指している。ゆくゆくは抑えとしてセーブを積み重ねていきたい。狙うは“高津2世”だ。
「僕の高校からプロ野球選手になったのは初めて。夢を諦めなければ現実になる。そのことを自分が1軍で投げることで伝えていきたいですね」
人生はいくつもの偶然が重なりあってできている。偶然を単なる偶然で終わらせるのか、偶然をチャンスととらえ、必然に変えられるのか。この違いは人生において大きい。24歳のサイド右腕は、いわば偶然を必然にしてプロの舞台へたどりついた。高津コーチとの出会いもきっと偶然ではなく、必然にできるはずである。
(次回は1月6日に更新します)
(石田洋之)
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