常勝軍団復活なるか。今季の埼玉西武は伊原春樹が11年ぶりに監督に復帰した。2002年、伊原は監督に就任するや、新人監督最多勝利(90)を挙げ、チームをリーグ優勝に導いた。“鬼軍曹”と呼ばれる、規律に厳しい面ばかりフィーチャーされているが、指揮官の用兵術にも卓越したものがある。02年の優勝時には和田一浩、犬伏稔昌、宮地克彦ら、それまであまり出番に恵まれなかった選手たちを積極的に起用し、ブレイクさせた。80年代から90年代の黄金期をコーチとして支え、今、その再現を指揮官として狙う伊原のマネジメント力の一端を、12年前の原稿で振り返ろう。
<この原稿は2002年11月号の『戦略経営者』に掲載されたものです>

 西武ライオンズの指揮官・伊原春樹は、9月22日のマリーンズ戦で83勝目をあげ、それまで1950年の水原茂(巨人)、60年の西本幸雄(大毎)が保持していた新人監督としての勝利数を42年ぶりに更新した。
 あと3試合を残して87勝。当分破られそうにない記録だ。

 しかし、伊原をして新人監督というイメージが、私はどうしてもわいてこない。
 もう何年もチームの指揮を執っているような印象がある。
 それは53歳という年齢からくるものではなさそうだ。采配に味と深みがあり、勝負のツボを実によく心得ているのだ。

 手練れの指揮官――。
 一言で言えば、そうなるのだろうか。いずれにしても4年ぶりのペナントレース奪回は、この男がいなければ果たしえなかった。「救世主」は身内の中に埋もれていたのである。

 今年のライオンズの得点源といえば、王貞治ホークス監督、近鉄のタフィ・ローズが持つ55本という年間最多本塁打記録更新に王手をかけている4番アレックス・カブレラだが、彼がこれだけ打てた背景には、5番和田一浩の存在がある。10月6日現在の和田の打撃成績は打率3割1分9厘、33本塁打、81打点。5番がこれだけ打てば、安易に4番を歩かせるわけにはいかない。マークも緩む。カブレラの驚異的な成績は和田が支えていると言っても過言ではない。

 そして、この和田を5番に指名し、定着させたのが他ならぬ伊原なのである。
 昨年秋、監督に就任したばかりの伊原は和田を呼び、こう告げた。

「もうミットはいらないよ」

 いわばキャッチャー失格を言い渡したされたようなものである。和田はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。キャッチャーとしての和田の資質に限界を感じていた伊原は、残りの野球人生をバッターとして生きることを求めたのである。
 今さら短所をなおしたところでたかが知れている。それよりも長所を伸ばすことで、さらに羽ばたかせてやろう――伊原はそう考えたのである。

「彼が20代前半だったらともかく、もう30でしょう。ある意味、キャッチャーは人を騙すのが仕事。急に“古狸”になれと言っても無理ですよ」
 伊原は和田を打者専任にした理由をこう述べ、続けた。

「それよりもバッター一本でいった方が彼にはいいのではないか。彼はバッティングもいいし足もある。それにバントやエンドラン、バスターエンドランといった細かいこともできる。
 昨年の傾向として、均衡したゲームで6、7回に一発のあるカブレラが打席に入ると、次のバッターが何も考えずにボーンと打ち上げたら相手を喜ばせるだけ。そこで早い時期からカブレラの後を和田に打たせようと考えていたんです。
 イメージとしてはヤクルトの5番・古田敦也。彼が後ろにいるから安易にペタジーニを歩かせることができない。古田は長打もあればエンドランもバントもできる。彼がいることで文字どおり打線が“線”としてつながった。この役割を和田にも期待したわけです」

 和田を5番に固定したことでカブレラのパワーはさらに生き、俊足巧打の松井稼頭央を本職のリードオフマンに戻したことで、一昨年までの得点欠乏症はウソのように完治した。まさに適材適所での伊原の選手配置が、湿っていた打線に火をつけたのである。

 伊原は2軍でくすぶっていた選手にもチャンスを与えた。その代表格が12年目のベテラン犬伏稔昌だろう。犬伏も和田同様、昨年までキャッチャーだったが、仕事といえばもっぱらブルペンでピッチャーのボールを受ける“壁”だった。昨年の秋には整理対象リストにその名があがっていた。

 しかし伊原は早い時期から犬伏の“左殺し”お才能に目をつけていた。キャッチャーとしての才能は凡庸だったが、左ピッチャーを攻略することにおいては他を寄せつけない能力を秘めている。ならば、それをフル回転させよう。そう判断した伊原は開幕2戦目のマリーンズ戦で早速、犬伏をスタメンに起用した。しかも3番である。

 見事、伊原の期待に応えて大活躍した犬伏は続くバファローズ戦でも左の前川勝彦から2打点を奪い、開幕ダッシュの原動力となった。

――クビになりかけていた男にチャンスを与え、しかも代打ではなく、いきなりスタメン3番。この采配には驚きました。
 そう訊ねると、伊原はしてやったりの表情を浮かべ、こう答えた。
「代打って、そう簡単なものじゃないんです。1週間に1回しか打席に立てないのに、それで結果を出せといっても土台、無理な話ですよ。(スタメンで)4回は打席に立たせなきゃ。それでダメなら本人が納得するでしょう」

 ことほどさように伊原の有能さは数え上げれば切りがない。しかし、球団はこれほどの男を進んで監督にしようとはしなかった。

 念願かなって、やっと監督になれたのも、舞台裏を明かせばタナボタ式。就任を要請したキャッチャーの伊東勤が現役に固執したため、“つなぎ”としてお鉢が回ってきたというのが事の真相である。

 99年には“V逸”の責任を問われ、チームを解任されている。決して優遇されてきたわけではない。
 しかしながら、いや、だからこそ伊原は心に反骨の炎を燃やし続けることができた。「今に見ておれ!」という不屈の魂を胸の奥に宿し続けることができた。

「前任者(東尾監督)のことをとやかく言うわけではないが、もう少しうまくやっていれば、あの7年間で5回は優勝することができた」

 サラリと伊原は言ってのけたが、このセリフほど伊原の自負を感じさせるものはなかった。
 2002年のプロ野球シーン、53歳の伊原春樹は誰よりも輝いていた。
◎バックナンバーはこちらから