「変わらなきゃ」
 若き日のイチローが、そんなキャッチコピーを連呼していた車のCMがあった。変わりたくても、なかなか変われないのが人間である。しかし、当時、日本球界初の200安打を達成し、時の人となったヒットメーカーが「変わらなきゃ」と言い切る。このインパクトが大きかったのだろう。このフレーズは、CMが放映された1995年の新語・流行語トップテンに選ばれた。
(写真:ヤマハの先輩・石山とは同じ背番号「21」で同じ部署だった竹下。「まさか同じチームに入れるとは」と驚く)
 それから約20年、「変わらなきゃ」と自己変革を果たし、プロ入りの夢をつかんだ左腕がいる。東京ヤクルト1位指名の竹下真吾である。
 大学時代までは、全国ではほぼ無名だった。福岡・八幡高では2年夏、3年夏とも3回戦でコールド負けを喫した。新垣渚(ヤクルト)、馬原孝浩(オリックス)らプロ選手も多数輩出している九州共立大に進学するも、エース格は同じ左腕の川満寛弥(千葉ロッテ)と1学年下の大瀬良大地(広島)。福岡六大学リーグでは4年間で、わずか1勝をあげただけだった。

 社会人を経てのプロ入りを目指し、ヤマハに入社。1年目からチームの主力となり、夏の都市対抗でも準々決勝(対東芝)の先発マウンドを託された。だが、秋の日本選手権、悪夢が待っていた。初戦の新日鐡住金かずさマジック戦、2点リードの9回に抑えとしてマウンドに上がるも、いきなり先頭打者にソロアーチを浴びる。1点差となり、次打者にも死球を与えて降板。この乱調が響き、後続のピッチャーも打たれて、チームはまさかの逆転サヨナラ負けを喫した。

 社会人の場合、2年目からドラフト指名の対象となる。竹下は「プロに行くなら2年」と期限を区切っていた。だが、このままではスカウトから評価を得られる選手にはなれない。
「何かを変えないと……」
 若者は自分自身のモデルチェンジを決意した。

 最初の「変わらなきゃ」。それは考え方だった。
「これまでは完璧を求めすぎて、自分で自分のピッチングをおかしくしていた。でも、しっかり準備した上で結果が出ないのであれば仕方がない。これが今の実力だと割り切るようにしたんです」

 常に100%の力を発揮できるに越したことはないが、調子が悪い時もある。発想を転換できるようになってから、追い込まれた場面でも、精神的な余裕が出てきた。
「たとえ狙ったところに投げられなくても、ストライクが入ればいい。ブルペンで良くなくても、試合は別物で抑えられるようになって、ピッチングが安定してきましたね」
 2年間指導したヤマハの右島学監督も「向上心が強いゆえに、昨年まではひとつのことに執着しすぎて視野が狭くなっていました。でも、今季は突き詰めた後で、程良く開き直れるようになってきた」とメンタル面の成熟を指摘する。

 2つ目の「変わらなきゃ」。それはストレートに磨きをかけることだ。社会人になって先発も経験した竹下だが、本人曰く「長いイニングを投げるとなると変化球も交ぜながらのストレートになる。それでは全然通用しなかった」。特徴である速球をさらに伸ばさない限り、上のレベルには到達できない。そう感じた左腕は大胆な変化を試みる。

 フォームの改造である。今季、ヤマハは都市対抗出場を逃したものの、竹下はホンダ鈴鹿の補強選手に選ばれた。本番までの準備期間中、ストレートを武器にするピッチャーのフォームをインターネットの動画を見ながら徹底的に研究した。藤川球児(カブスからFA)、平野佳寿(オリックス)……。豪速球で相手をねじ伏せるクローザーたちのフォームを参考に、セットから腕を上げ、勢いをつけて投げ下ろす躍動感のあるものに変更した。

 これは本人にとって「賭け」だった。当然、フォームがバラバラになり、裏目に出る可能性もある。しかし、ハイリスクでもハイリターンを得られる道を竹下は選択したのだ。
「失敗したら、それまでの選手だと思ったんです。最初はフォームがしっくりきませんでしたけど、徐々にハマっていきましたね。体重が前に乗り、バーンと飛び跳ねる感じで1球1球、力感を持って投げられるようになりました」
 都市対抗では2試合に投げ、リリーフで4回3分の1を無失点。最速148キロの速球を主体にバッターを牛耳った。 

 そして、3つ目の「変わらなきゃ」。それはフィジカルの強化だ。都市対抗後、ヤマハに戻り、中断していたウエイトトレーニングを復活させた。
「社会人は試合が続くことがありますから、うまく調整できないと困るのでウエイトは控えていました。でも、都市対抗が終わって、もっと上を目指したかった。8月に入ってから1カ月間、みっちり取り組みました」
 
 今季はチームで抑え役を任された。心技体の「変わらなきゃ」が、実を結んだのが、11月の日本選手権だ。初戦、七十七銀行との試合は接戦となった。2−1とリードの8回からクローザーの竹下が登板する。最終回、味方のエラーに四球も重なり、1死満塁のピンチを招いた。

 迎えたバッターに対して、カウントは3−1。もう1球もボールは許されない状況だった。
「でも、たとえボールで押し出しになっても同点。僕はそう考えていました。きっと去年までなら、そうは絶対に思えなかったでしょうね」
 慌てず、次の1球でストライクをとり、フルカウントに持ち込むと、最後は内角にズバッと自信を深めたストレートを投げ込んだ。バットに空を切らせて試合終了。前年の最終回の悪夢を振り払い、チームを初戦突破に導いた。

 この大会、ヤマハは3回戦敗退だったが、敗れたJR東日本戦でも竹下は8、9回をゼロに抑えた。「結果は残念でしたが、集大成を見せられた」と胸を張ってプロの世界に飛び込む。

 実はプロを意識し始めたのも、「変わらなきゃ」と自らを変えたことがきっかけだった。大学時代、先述したように、川満、大瀬良の陰に隠れ、リーグ戦での登板機会はあまりなかった。しかし、最終学年を前にした大学3年の冬、「このままで終わりたくない」と徹底的に体を鍛え抜いた。すると、それまで頑張っても143キロだった球速が、MAX148キロを記録したのだ。川満、大瀬良目当てだったNPBのスカウトが速球派左腕として竹下にも視線を向けるようになった。

 大学卒業後のプロ入りは叶わなかったが、その姿がヤマハの右島の目に留まった。
「荒さはあるものの、ストレートがいいし、投げ方も良かったんです。社会人で十分、力を発揮できる。当時の九州共立大には同じ左腕で福地(元春)君(三菱日立パワーシステムズ横浜、横浜DeNA4位指名)もいて両方欲しいくらいでした」

 右島は現時点での竹下を自社製品になぞらえて、「モノはものすごくいいけど、まだチューニングを終えていない楽器」と評する。「大学時代は実戦経験がほとんどなく、高いレベルで投げたのは社会人の2年しかない。プロの世界に順応していく中で、対バッターの駆け引きや投球術などを吸収して、もっと伸びるはず」と教え子がプロで最高の音色を奏でることを楽しみにしている。 

 球団はドラ1ルーキーに背番号「22」を与える方針だ。ヤクルトの「22」といえば、通算286セーブをあげた黄金時代の守護神・高津臣吾がつけていた番号だ。ヤクルトはここ2年、勝ちパターンが確立できず、低迷の一因となった。ブルペンの柱になってほしいとの高い期待度がうかがえる。

「細かいコントロールがあるタイプではない。持ち味の球威を生かすためにも、中継ぎ、抑え向きだと思います」と本人もセットアッパー、抑えでの活躍を望む。右バッターの懐をクロスファイアでえぐるストレートは威力十分。フォークボールのような落ちをみせるチェンジアップも武器だ。

 ヤクルトはドラフト1位でヤマハの選手を獲得したケースが過去2回ある。89年には西村龍次を指名し、入団から4年連続で2ケタ勝利をあげた。12年の石山泰稚も1年目にセットアッパーとしてフル回転したのは記憶に新しい。しかも1位のみならず、両年とも2位の選手も成功している。89年のドラフト2位は古田敦也、12年は小川泰弘だ。もう2人の実績は言うまでもないだろう。

 これにならえば、来るシーズン、竹下と2位の風張蓮(東農大北海道オホーツク)のコンビがチームの救世主になってくれるはずだ。
「即戦力で獲っていただいたので最低でも開幕1軍。“7、8回を投げてほしい”と言われていますから、セットアッパーとしての役割をしっかり果たしたい。最終的にはヤクルトのクローザーになりたいですね」
 よく新人が目標として口にする「新人王」よりも、本人は「長く活躍できる選手になりたい」と先を見据える。

「左バッターのインコースに投げ切れるところが課題になってくると思います。カットボールも、もう1、2段階レベルアップさせたい」
 プロに入って、「変わらなきゃ」と感じているテーマも既に明確だ。変わり続ける24歳は、いったい、どんな最終進化型に達するのか。チューニングが完了した左腕で、幾度となく勝利の調べを神宮の杜に響かせてほしい。

(次回は12月15日に更新します)
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