長ドスを手にした高倉健が天龍源一郎なら、橋の袂で暗闇からニョッと現われる池部良が阿修羅原――。まるで映画『昭和残侠伝』のような入場シーンだった。1991年8月9日、SWS1周年記念興行。横浜アリーナでの“龍原砲”の2年9カ月ぶりの復活戦は未だに忘れられない。
 原が突如として失踪したのが88年の冬。北海道の知人の世話になっていたということ以外、どんな生活をしていたのか、全日本プロレス時代の盟友・天龍ですら知らなかった。

「その間、プロレスは全く見ていない。風のウワサでSWSを旗揚げした源ちゃんが悪戦苦闘していたのは知っていたけど、オレ自身、プロレスに戻れるような状況ではなかったんだ……」。2人が再会を果たしたのは1周年記念興行の約1カ月前。「ねぇ阿修羅、このまま埋もれるわけにはいかないよね?」。その一言で十分だった。天龍は「オレと阿修羅の世界は浪花節」と語った。

 片や前頭筆頭まで昇ったにもかかわらず、部屋の騒動に巻き込まれ、自らの意思でマゲを切り、プロレスに身を投じた天龍。片や元ラグビー世界選抜メンバーという輝かしいキャリアを捨てて倒産寸前の国際プロレスに飛び込んだ原。
「オレと阿修羅の共通点は不満分子。王道を歩いてきたレスラーに対しては、常に“このやろう!”という意識を持っていた。それが組織や会社に不満を持っている人間に受けたんじゃないかな。“よし、オレたちだって、いつかは”ってね」。いつだったか、天龍は、そう語っていた。

 全日本で天龍同盟を結成していた頃の話。当然、対立する本隊とは別行動である。乗り物もホテルも全て自分たちで探さなければならない。天龍によると「随分、阿修羅には助けられた」という。「これは彼の特殊技能なんだけど、阿修羅はラグビー選手時代、近鉄に勤めていたから、電車のダイヤを見るのがうまいんだ。どの電車でどこまで行って、どこで乗り換えるか。初めて行くような田舎の会場でも、迷わずにすんだのは彼のおかげですよ」

 8日前、原の突然の訃報に接した。肺炎のため、長崎県内の病院で68年の生涯を閉じた。一時代を築いた名レスラーながら、2度も失踪事件を起こすなど人生のダイヤの読み方はお世辞にも上手とは言えなかった。昭和プロレスの残照が、またひとつ消えた。

<この原稿は15年5月6日付『スポーツニッポン』に掲載されています>
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