北の大地で、日本スポーツ界における新たな歴史がスタートした――。7月6、7日、北海道江別市の野幌総合運動公園で開催されたのは、第1回全日本車椅子ソフトボール選手権大会だ。今大会、出場したのはノースランドウォーリアーズ(北海道)と東京レジェンドフェローズ。それぞれがA、Bの2チームに分かれ、計4チームでのトーナメント戦が行なわれた。優勝したのは、ウォーリアーズのAチーム。決勝ではフェローズのAチームを8−3で破り、栄えある初代チャンピオンに輝いた。MVPにはウォーリアーズの主将・エースである飛島大輔が選出された。
(写真:会場は車椅子が走れるようにとコンクリートの駐車場で行なわれた)
 観客を魅了した好プレー

 会場を訪れると、既に試合前のノックが行なわれていた。初夏らしい青空の下、ボールを追いかける選手たち。試合前の緊張感と、歴史的第一歩を踏み出すという高揚感が入り交じり、独特な空気が流れていた。
「やっぱり外でやるのは気持ちいい!」
 選手からはそんな声が聞こえてくるほど、野球日和に恵まれた。

 2チームの雰囲気が異なっていたのも、また面白かった。歴史ある第1回大会開催に心を躍らせ、快活な動きを見せる赤のユニフォームのフェローズに対し、淡々と堅実なプレーをこなす青のユニフォームのウォーリアーズは静かに初代チャンピオンへの闘志を燃やしているように見えた。

 チームとしての熟成度はウォーリアーズに分があった。日本における車椅子ソフトボールの発起人とも言える大西昌美北翔大学生涯スポーツ学部准教授が監督を務め、北海高校野球部時代にはその大西監督の指導を受けた飛島がキャプテンでエースを務める。大西監督も選手も、地元開催ということもあり、初代チャンピオンの座は絶対に渡さない、と本気で狙っていたことは想像に難くない。

 一方、なかなかチーム練習ができていないというフェローズだが、かつて米国チームに所属し、全米選手権の出場経験のあるエース堀江航を中心に、レギュラー組の中には現役の車椅子バスケットボールプレーヤーが複数おり、キレのあるチェアワークで、見るものを魅了させた。

 順当にレギュラー組のAチーム同士の対戦となった決勝、フェローズが初回に先制したものの、ウォーリアーズが2回に同点に追いつくと、3回以降は着実に追加点を挙げ、試合巧者ぶりを発揮。投げては飛島がキャッチャーの要求通りのコースに投げ分ける好投を披露した。バックも併殺をとるなど堅実な守備でエースをもりたてた。フェローズは4回に2点を追加したものの、力及ばず。8−3でウォーリアーズが快勝し、見事に初代チャンピオンに輝いた。

(写真:「本来はピッチャーではない」堀江だが、豊富な経験をいかし、レベルの高いピッチングを披露した)
 わずか2チームをA、Bの計4チームに分けての大会だったが、そこには将来への希望、そしてスポーツへの情熱があった。そう感じられた要因のひとつには、想像以上のレベルの高さがあげられる。ピッチャーはキャッチャーのサイン通りのコースに投げ分け、守備も配球によるシフトのサインをキャッチャーから送られるという徹底ぶり。一方、バッターは場面によってコースを打ち分け、エンドランをしかけるなど常に次の塁を狙う姿勢が目立った。

 フェローズのエースとして登板した堀江は、投手と打者の間にある駆け引きについて、次のように語る。
「バッターの立つ位置によって打ちやすい、打ちにくいがあるので、バッテリーはそれで配球を考えるんです。例えば、バッターが前に立っていたら、『あ、内角を狙っているな』とか、後ろに立ったら『外角を狙っているんだな』とか。逆にバッターとすれば、打ちづらいところに来たら、思い切り振るというよりも、野手と野手の間を狙うようにして逆らわずに打つのが大切になってくるんです」

 こうしたレベルの高さに驚きと関心をもった観客が、ファインプレーのたびに歓声と拍手を寄せていた。そこには障害の有無などまったく関係ない、スポーツとしての「車椅子ソフトボール」があった。

 キャッチボールから選手権大会開催へ

「もう、ワクワクしていますよ」
 6日、第1回大会開催を祝して行なわれたレセプションパーティーで、国内における車椅子ソフトボールの草分け的存在である大西監督は、満面の笑みをこぼしながらこう語った。その表情は、まるで野球少年の様であり、その目は希望に満ち溢れていた。
(写真:嬉しそうな笑顔が印象的だった大西監督。野球への情熱は選手にも負けてはいない)

「5年前、飛島と2人、キャッチボールから始めたんです」
 飛島は、大西監督の北海高校野球部時代の教え子である。その飛島が、交通事故で車椅子生活を余儀なくされたのは14年前だった。
「また野球がしたい」
 そんな飛島の願いをなんとかかなえさせてやりたいと、大西監督は車椅子で野球ができないかと模索し始めた。

 昨年、車椅子ソフトボールが米国で行なわれていることを知った。しかも30年以上も前から全米選手権が行なわれているというのだ。早速、視察に訪れようとしたところ、当時日本人としてただひとり米国チームに所属していた堀江を通じて、急遽日本代表として大会に出場することが決まった。実は飛島と堀江は元車椅子バスケットボールプレーヤーで、親しい間柄だった。そんな縁もあって、話はとんとん拍子に進んだ。

 この全米選手権出場が転機となり、日本でも車椅子ソフトボールを普及させようという動きが活発となる。今年4月には一般社団法人日本車椅子ソフトボール協会を設立。その3カ月後には第1回全日本選手権大会が行なわれる運びとなった。
「とにかく一番必要なのは、スピードだと思いました。スピード感をもってどんどんやっていかないと、広まらないと思って急いでやったんです。たくさんの人のおかげで、今日という日を迎えることができた。本当に嬉しい」
 訪れたチャンスを逃すまいと奔走した日々を思い出していたのだろう、大西監督はそうしみじみと語った。

 一方、日米の懸け橋となった堀江もまた、感慨深そうにこう語った。
「米国に行って、ルームメイトに勧められたのがソフトボールをやるきっかけだったのですが、そのルームメイトからは『日本でも広めてほしい』とずっと言われていたんです。でも、その時は本当にこういうふうになるとは思ってもいなかったので、本当にビックリしています」

 目指すは世界大会開催

 車椅子ソフトボールの魅力のひとつは、障害の有無にかかわらずに楽しむことができるという点だ。今大会、ウォーリアーズとフェローズには健常者が入り混じっており、健常者と障害者の垣根を越え、純粋にスポーツを楽しむ仲間の輪が出来上がっていた。

「僕はとにかく野球が大好きなんです。自分のライフワークですし、僕自身が生きていくためには欠かせないもの。これまで高校や大学の監督をやってきましたが、その時と何ら気持ちは変わっていません。勝ちたいですし、うまくなってほしいし、そして何より楽しんでほしい。それがたまたま車椅子に乗っている人がやっているというだけのこと」
 
 そう車椅子ソフトボールへの思いを語る大西監督には次なる目標がある。
「せっかく米国とのパイプができたので、お互いに協力し合って競技の普及・発展のために活動していきたいですね。そして最終的にはワールドシリーズあるいはパラリンピック競技につながっていけるようにしたいと思っています」

 この自らの思いを大西監督は、飛島の背番号「24」に託している。
「高校の監督だった時によく『ニシ』って言われていたんです。それで自分とつながりが深い『24』をつけろ、と。飛島にはこの競技の中心選手になってほしいと思っています。自分の技術を磨くだけでなく、車椅子ソフトボール界全体のリーダーシップを取ってほしい。自分の跡を継いでやってくれるような人になってほしいという気持ちを込めて『24』をつけさせました」

(写真:車椅子バスケットの選手時代も、野球への気持ちは変わらなかった飛島。車椅子ソフトボールの普及・発展への思いは誰よりも強い)
 飛島は今、一児の父親でもある。仕事をしながら週に3回ほど、練習を行ない、レベルアップを図っている。以前は仕事で疲れて帰ってくると、練習を休むこともあった飛島だが、子どもが生まれてからはどんなに疲れていても練習に行くようになったという。妻の美貴さんは、そんな飛島の変化の理由を「やっぱり子どもにかっこいいところを見せたいんだと思うんです」と語った。

 そして、こう続けた。
「それと、どんどん人が増えてきたことも大きいと思います。最初の練習は10人もいませんでしたから……。それも車椅子バスケの選手に声をかけて、ようやく集まったという感じで。最初だけは興味をもって集まってくれましたが、なかなかその後が続かなかったり……。今はチームとしてやれていることがモチベーションを上げているんだと思います」

 試合当日、チームメイトの輪を離れてひとり、相手チームの練習を見ている飛島がいた。
「ようやくここまできた、という感じですね。みんな楽しそうにやっていることが嬉しい。天気も良くて2チームだけとは思えないくらい、いい雰囲気ですよね。やっぱり野球はいいなって思いますよ」
 落ち着き払った表情と声とは裏腹に、その目には心の高揚感がはっきりと映し出されていた。

 日本の車椅子ソフトボールは、まだスタートを切ったばかりだが、今回踏み出した一歩は決して小さくはない。現在は全国に3チームだが、野球という文化が深く根付いている国内において、車椅子ソフトボールの将来性は十分にある。今後は認知拡大が、普及・発展のカギを握る。

(文・写真/斎藤寿子)