
及川晋平の人生はバスケットボールと共にある。トッププレーヤーを目指し、毎日バスケットに明け暮れた少年時代。高校進学後もバスケット中心の生活を送っていた。右足に激痛が走ったのはそんな矢先のことだった。診断の結果は「骨肉腫」。骨のガンだった。転移のおそれから右足切断を余儀なくされた。再発の恐れ、切断のショック……そんな苦しみから及川を救ってくれたのは、やはりバスケットだった。「車椅子バスケットボール」という新たな競技に魅せられた及川。単身での米国留学、パラリンピック出場、そして現在は後進の育成と、彼の人生はまさに車椅子バスケット一色に染められている。今回はその及川に二宮清純がロングインタビューを敢行。バスケットとはまた違う魅力をもつ車椅子バスケットに迫った。
二宮: 車椅子バスケットボールを始めたきっかけは何だったのでしょう?
及川: もともと僕はバスケットボールが大好きで、高校もバスケットをやるために入ったようなものだったんです。特別に身長が高かったわけでもないのですが、とにかくバスケットが好きだった。いわゆる"バスケバカ"だったんですよ(笑)。ところが、高校1年の冬に骨肉腫という病気になって、右足を切断したんです。それで義足になったので一度はバスケットを諦めました。でも、たまたま僕がバスケットをやっていたことを知った地元の車椅子バスケットボールチーム「千葉ホークス」のキャプテンが誘いに来てくれたんです。それがきっかけでしたね。
二宮: 骨肉腫が発覚したきっかけは?
及川: 高校1年の冬、正月休みが終わって練習を再開した時に、ランニングシュートをしたら足が痛くて跳べなかったんです。それでも我慢してやっていたんですけど、どんどん痛みが激しくなっていって......。最初は肉離れかなと思っていました。だから「オレもアスリートだな」なんて嬉しがっていたところもあったんです。でも、最後は夜、眠れないくらいの激痛でした。さすがにこれは医者に診てもらわなければいけないと。
二宮: 診断結果を聞いたときは、ショックだったでしょうね。
及川: 最初は骨肉腫がどういう病気かわからなかったので、「とにかく早くコートに戻らなくちゃ」という思いしかなかったですね。その頃は当然のように、復帰する気でいました。
二宮: それが、まさか切断にまで至るとは......。
及川: はい、そうなんです。千葉県のがんセンターに移って、まずは人工関節置換術という手術をしました。足を切断することは避けたかったですからね。ヒザの関節を取り除き、チタンでできた人工関節を埋め込んだんです。ところが、腫瘍が肺にまで転移していることがわかって、これでは命が危ないということで右足を切断せざるを得なくなってしまった。それでも足首は生きていたので、足首の関節をヒザの関節に代用するという「ローテーション」手術を行ないました。これだと自分の意識でヒザを動かすことができるので、義足で歩く時も安定しますし、動きやすいんです。
二宮: 退院するまでにはどのくらいかかったんでしょうか?
及川: 足かけ5年くらい入院していましたね。右足を切断してからも右と左、1度ずつ肺に転移しているんです。もう抗がん剤も使えないくらい白血球が下がって、これ以上治療はできないと。ひとまず病気が進行している様子も見られないから、という理由で退院したんです。正直、また再発したら死ぬかもしれないという思いは常にありましたね。
二宮: そんなどん底の頃に車椅子バスケットと出合うわけですね。
及川: はい。正直、最初は乗り気ではなかったんです。僕はずっと一流プレーヤーを目指していましたから、「障害者スポーツの車椅子バスケットなんか、やってられるか!」と。ところが、初めて見た時にバスケットの面白さ、ボールを持つ感触が一気に甦ってきたんです。それで、「よし、やってみよう」と。
二宮: しかし、いくらバスケットをやっていたとはいえ、車椅子は初心者。操作できるようになるには時間がかかったでしょう?
及川: そうなんです。練習でも一番遅くて......。それが嫌で嫌でたまらなかった。だからチームの練習後、公園とかで一人で車椅子で走っていましたよ。とにかくスピードだけは負けないようにしようと思ったんです。
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