
今夏に開催されるロンドンパラリンピックで連覇を目指しているのが、車いすテニスプレーヤー・国枝慎吾だ。その国枝の名を世界の轟かせたのが、丸山弘道コーチである。今や車いすテニスコーチの第一人者と言っても過言ではない丸山コーチだが、ここまでの道のりは決して平たんではなかった。そこで二宮清純がロングインタビュー。車いすテニスのコーチング理念に迫った。
二宮: 丸山さんが車いすテニスの指導をされ始めたのは、1997年。バルセロナ、アトランタと2大会連続でパラリンピックに出場した大森康克さんとの出会いがきっかけだったそうですね。
丸山: はい。当時、大森さんはそのシーズン限りでの引退を決めていました。そこで自らが発起人の一人として創設した日本マスターズ(NEC全日本選抜車いすテニス選手権大会)で最後にひと花咲かせ、現役の最後を飾ろうと思っていたようです。
二宮: それで白羽の矢が立ったのが丸山さんだったと?
丸山: そのようですね。でも、当時の私は車いすテニスを指導したことがなく、何の知識もありませんでした。ですから「コーチとして、自分は大森さんに何もできない」と一度、お断りをしたんです。それでも大森さんから猛アタックをかけられまして......。それで「ヒッティングパートナーでよければ」ということで、引き受けました。結果的に、優勝はできませんでしたが、大森さんは決勝に進出し、準優勝したんです。私自身、車いすテニスのノウハウもない中、よくやったなと。大役を果たしたことだし、これで車いすテニスとは離れて、また一般のジュニア育成に戻ろうと思っていました。ところが、大森さんから「次に指導してもらいたい選手がいるんだ。絶対に日本代表になるだけの力があるから、ぜひ指導してほしい」と言われたんです。今度こそ、断ろうと思いました。でも、もうその選手を呼んでいると言うんです。追い返すわけにもいかないですし、結局、断ることができませんでした。その選手というのが、2年後の2000年にシドニーパラリンピックに出場した山倉昭男さんでした。
二宮: 本格的に車いすテニスの指導に取り組み始めたのはいつ頃ですか?
丸山: 山倉さんを指導していくうちに、車いすテニスの指導にのめりこんでいきましたね。それは、車いすテニスへの考え方が変わっていったというのが大きかった。というのも、テニスコーチというのは、普及や強化以前に、老若男女問わず、そして障害の有無に関係なく、テニスというスポーツの楽しさを伝えることなんじゃないかと思ったんです。でも、大森さんを指導している時はそれがわかっていませんでした。そのことに気づかせてくれたのも大森さんだったんです。私は最初、大森さんに対して、荷物を持ってあげたり、車いすを押してあげたり......と至れり尽くせりでした。そんな私の態度に大森さんは嫌気がさしたんでしょうね。ある日、「あなたは私のコーチなのか、介助者なのか、どちらですか?」と聞いてきたんです。もちろん私は「コーチです」と答えました。そしたら「それなら、テニスコーチとしての仕事を全うしてください。私ができないのは階段を昇り降りすることだけ。あとは全て一人でできますから、自分のことは自分でやります」ときっぱりと言われました。その時、自分が指導者として大森さんに接していなかったことに初めて気付かされたんです。そこから徐々に車いすテニスへの考え方が変わり始めたことで、翌年98年からの指導へつながっていったのかなと思っています。
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