二宮: 吉永さんといえば、女性初の競馬記者。競馬は私も昔から好きでよくやりました。やり始めた頃はビギナーズラックでよく当たったので、競馬ばかりやっていました。当時、シービークロスには入れ込みましたね。吉永さんは、もともと競馬が好きだったんですか?
吉永: 私が競馬と出会ったのは、大学に入った年だから、昭和43年ですね。母子家庭だったし、それまで競馬なんて全く知らなかった。高校時代、蕨から浦和に電車で通っていたんです。南浦和に浦和競馬場があって、私が学校から帰るときに最終レースが終わるタイミングが重なって、南浦和駅から競馬帰りのおっちゃんが大勢乗り込んでくるのがとってもイヤだった(笑)。だからもともと馬には、何の思い入れもありませんでした。
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二宮: それなのにどうして競馬に興味を?
吉永: 大学に入学した年は、ダービーが7月7日に開催された「七夕ダービー」の年だった。サークル活動か何かで、その日は日曜だったけど学校に行っていたんです。ちょうど、衆議院議員選挙の日でもあったから、学生食堂の隣の談話室のようなテレビのある部屋に行ったら「今日は選挙だ」という派と、「今日はダービーだ」という派がいた。私はそれまで競馬なんて観たこともなかったし、「ダービーって何? 馬が走るの? ふ〜ん…」という程度だった。
 そうしたら、テレビが1台しかないから、選挙を見るのか、ダービーを見るのか、チャンネルの権利を巡って、多数決をとることになったんです。民主的でしょう(笑)。そのとき、競馬のことなんて何も知らないのに思わずダービー派についたの。それで、ダービー派がチャンネル権を獲った。その日はダイシンボルガードが勝ったんだけど、当時は、マーチス、アサカオー、タケシバオーという「元祖・3強」がいた。その3強がけん制しあっちゃって、大逃げをしていたダイシンボルガードがそのまま勝ってしまった。みんなが「大穴だ!」と騒いでいて、私も当時は馬の名前さえ全然知らなかったけど、一緒になって「大穴なんだ〜!」と興奮しましたね。そのときに初めて、「競馬って面白そうだな」と…。

二宮: それがきっかけで競馬をするようになったんですか?
吉永: いや、その後もしばらくは競馬に縁はなかった。当時は、学生運動やストライキが盛んだった時期で、勉強どころじゃなくなってしまったんです。

二宮: どこかのセクトに入っていたんですか?
吉永: どこにも入っていなかったけど、自分の学校がどうなっているのか見ておかないと気がすまなかったから、団交を行っていると必ず見に行っていたの。律儀な傍観者でしたね。それで学校が正常になったときに、「総括をしろ」と言われるのが怖くて、このおしゃべりな私が何もしゃべれなくなったんです。
 そういう状況の中で、あるとき、キャンパス内ですごく熱心に話している集団がいた。「何をしゃべっているんだろう?」と思ったら、競馬の予想を言い合っていた。それで「あぁ、競馬の予想なら思い切りしゃべれるんだ」と。結果に対する責任はないんだから総括しなくてもいいわけです。翌日は土曜日だったんだけど、同級生たちに「明日、中山に行くけど、行くか?」と言われて「行く、行く!」と(笑)。いつもは人に会わないように裏道を帰っていたのに、明日やることができたということがとっても嬉しかったの。

二宮: 東大や日大での闘争の激しさは有名ですが、東京外語大も厳しかったんですか?
吉永: 小規模の大学だったからそんなに目立ちはしなかったけど、ウチのような小さい学校が闘争すると、名前と顔が簡単に一致してしまうから後遺症が大変なんですよ。しかも語学系の大学なのに、闘争やストライキで授業どころじゃなくなってしまって、3年生になったときに、語学が何もできない状態だった。もう取り返しもつかないし、外語大に入った意味がなくなってしまった。大学に入ったときには、将来の青写真を描いていたのに…。

 人生は1レースじゃない

二宮: 当時は、将来は外国語を駆使できる仕事に就こうと?
吉永: 私、通訳になりたかったんです。東京五輪の影響ですね。金メダルを4個も獲った水泳のドン・ショランダーに会いたくて、学校を休んで選手村に通ったりもしていた。
 通訳を目指して外語大に入ったのに、見事な挫折。この先、私はいったいどうやって生きていけばいいんだろう、と…。すごく落ち込んでいた。
 そんなときに競馬に誘われて、中山競馬場に初めて行ったんです。

二宮: 当時は、競馬場に女の子なんていないでしょう。
吉永: オヤジばかりでしたね(笑)。一緒に行った同級生は自分の馬券を買うので一生懸命。私は何も分からない状態だった。そのとき、馬よりもおじさんたちの姿に目が行ったんです。馬券を外して茫然と天を仰ぐおじさんたちを見て、すごく親近感がわいた。「この人たちも落ち込んでいる。私だけじゃないんだ」と。落ち込んでいるおじさんたちも、ファンファーレが鳴ると、一度は元気になる(笑)。競馬場ってレースの数だけファンファーレが鳴るじゃない。それで「人生、1レースじゃないんだ」と思いましたね。「またファンファーレが鳴りそう」と…。すごく気が楽になった。それで、翌日、もう1回行ったの。慣れてきて馬がいる場所やパドックもわかってきたら、だんだん、人間よりも馬の方に興味が行きましたね。もう、大学の後半はほとんど、競馬漬けでした(笑)。

二宮: 当時の女子学生としては珍しいタイプだったでしょうね(笑)。それで競馬記者への道は?
吉永: 大学4年のとき、周りが就職を決めていく中で、私はただ馬の近くで仕事したいな、と。馬の世話をしたい、と思っていたけど、当時は女なんて入れない世界だった。もっとも、すべての分野で女性の社会進出の道は開かれていなかったから、当然といえば当然なんだろうけど。今みたいに情報をインターネットで検索できる時代じゃないし。自分でいろいろと考えるうちに「競馬記者を目指そう」と思った。大学4年の12月頃、インフルエンザが流行っていたんです。有馬記念の出走予定馬が次々と出走取り消しになって、トウメイという私がすごく応援していた牝馬が勝った。でもほかの強い馬が出走していないから勝てたんだという声が多くて、すごく悔しかった。その時に「私は競馬の世界で生きていくしかない」と思った。それで必死になって、競馬の仕事を探したんです。
 まずは、スポーツ新聞に片っ端から全部電話しました。でも「女の記者はいらない」と言われる。それで、競馬新聞かなと思ったけど、ツテなんてない。コネにつながるコネを探そう、と私の友達5人に5人ずつ紹介してもらって、どこかに競馬につながる人がいないか、と探していきました。美術出版社に勤めている人に出会って、そのツテでけっこう大きなレースで勝っている馬の馬主さんを紹介してもらった。「変わった子だねぇ」と言われたけど、その人の知り合いに、競馬新聞『勝馬』の専務がいる、と。「紹介してください!」とお願いして、その次は『勝馬』の社長のところに直談判に行きました。

二宮: すごい熱意ですねぇ。
吉永: そこでもやっぱり「変わってるねぇ」と言われましたね(笑)。「面白いヤツだから、入れてやる」と。もう本当に嬉しかった。やっぱり、道路がどこかでつながってるように、人間ってどこかでつながっているんだなと思いましたね。

 女性初の競馬記者として

二宮: あの頃の競馬は面白かったですよね。競馬記者も皆、個性的だった。
吉永: うん。人も馬も個性的な時代だった。今は、早いうちから才能を発揮しないと生き延びられなくなっている。

二宮: 競馬専門紙の仕事はどうでしたか?
吉永: 競馬新聞は、レースの予想をたてるから、月曜に会社に行くと、苦情電話が殺到するんです。そういう苦情に対して、ひたすら謝るのも大事な仕事の一つ。『勝馬』のときは、謝るときにうまく逃げられるような文章を書いていたんです。「うまく逃げられたら、逃げ残りも…」とかね。「…」の部分には、「あるかもしれないけど、ないかもしれない」の意味をこめて(笑)。
 その後、『日刊ゲンダイ』に移ったんだけど、『勝馬』とは全く違いましたね。『日刊ゲンダイ』は断定主義だから、私が言い訳できる文章を書くと怒られるわけです。

二宮: 当時の『日刊ゲンダイ』にはカルチャーショックを受けましたね。タブロイド的な新聞だから、「このレースは○○で決まり!」とか平気で書くんですよね。
吉永: そうそう。「トウショウボーイは、テンポイントに勝つだろう」と書くと、見出しが「トウショウボーイは、テンポイントに7馬身離して勝つ!」となる。うそでしょう!? と(笑)。ちょうど創刊の頃だから、すごかったね。ハラハラしていましたよ。

二宮: 吉永さんの担当コーナーもあったんですか?
吉永:『勝馬』には「データは語る」という小さいコーナーがあって、そこでは私も書かせてもらいましたね。当時は手書きの時代だから、枠順発表は電話でとって8枚くらい紙を重ねて、間にカーボンを入れて、その上から書く。「女は力が弱いから薄い」と言われるから、家に帰って、8枚紙を重ねて早く力を入れて書く練習をした。8枚目が薄くてみえない、となったら「女は使い物にならない」と言われてしまうから。腱鞘炎になりそうでしたよ。コピー機もない時代ですよ。

二宮: やはり女性ならではの苦労があるんですね。今は若い女性競馬記者や評論家が増えましたよね。
吉永: あの頃は、女が来ると馬場が汚れる、と言って塩を撒かれたこともありますよ。「縁起が悪い」と。今では信じられないですね。

二宮: 時代が変わりましたよね。
吉永: 良い時代になったと同時に、日本の競馬の文化は危ういなとも感じますね。生活の中に馬の姿はない、馬なんて触ったことがないという人が競馬を支えているわけだから。そのファンが多くなればなるほど、万が一のことが起こらないように、パドックも警戒が厳重になる。そうなると、馬がさらに遠くなってしまう。
 例えばイギリスなんかは、どれだけ売上が減ろうが、馬の文化が深く根付いているところだから、消えることはないんです。でも日本はバブルのように上がっても、下がる可能性もある…。

二宮: なるほど、競馬を支えるファンを養うことも大事ですよね。スポーツもそう。見巧者によって、選手は育てられる。ところで、このウイスキーの味はいかがですか?
吉永: すごく美味しい。お酒は何でも好きです。酒もまた、良い酒飲みが良い酒を育てるのよ(笑)。

(終わり)

吉永みち子(よしなが・みちこ)プロフィール
ノンフィクション作家。1950年生まれ、東京外語大学卒。競馬新聞記者、日刊ゲンダイ記者を経て1977年騎手の吉永正人氏(故人)と結婚(後に離婚)。「気がつけば騎手の女房」で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。テレビコメンテーターなどとしても活躍。





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