二宮: 僕は小さい頃からの高校野球マニアなので、甲子園に出場していた東尾さんの姿をよく覚えているんです。和歌山県代表・箕島高校のエースでした。凄く柔らかいフォームで投げていた印象を持っています。
東尾: いやいや、今思えば全然硬いピッチャーでした。そう見えたのは、二宮さんが子供だったからですよ(笑)。


二宮: そんなことはないです。コントロールも良かったし、バッティング面でも目立っていました。
東尾: 高校生としては普通でしょう。超一流のレベルのコントロールじゃないし、フォームだって膝のつっぱりとか酷かったですよ。

二宮: 箕島高校に東尾さんを誘ったのは、尾藤公さんですね。後に箕島を全国屈指の強豪に育て上げた方です。尾藤さんが監督になられたのは、この頃ですか?
東尾: 僕が声をかけてもらったのは、尾藤さんが監督になる前、その年の春に着任するというタイミングでした。ちょうどこの頃、和歌山県で県立高校を強くしようという動きがあった。だから、僕らが入学する前年の夏から、地元の選手に声をかけていたみたいです。今でこそ、智弁和歌山とか全国制覇するような強豪校があるけど、当時は強い高校はなかったですから。

二宮: もともと東尾さんは京都の名門私立である平安高校への入学が決まっていたんですよね。
東尾: 僕ももう京都へ行くつもりで、下宿先に布団も送っていたんです。ところが卒業式が近くなった時に、尾藤さんが訪ねてこられた。尾藤さんは当時23歳の新任監督ですごく熱心に誘ってくれたんです。家族も本当は僕を地元に置いておきたかったから、ギリギリのところで箕島高校へ進学することになったんです。もし平安へ行っていたら、人生が大きく変わっていたかもしれないですね。同級生では池田信夫というピッチャーがいたんです。当時の実力では完全に池田の方が上だった。たぶん、池田がエースで控えピッチャーになっていたか内野手になっていたでしょう。

二宮: 当然甲子園で投げることもなかった、と。
東尾: ピッチャーをやっていなかったかもわからないよね。そうなればきっと、プロに入ることもないだろうから、高校卒業後はどこかの大学へ進学して内野手になっていたと思う。打つのも好きだったし、自信があったからね。

二宮: “たられば”ですけど、もし野手になっていたらプロで2000本安打を打っていましたかね?
東尾: 2000本はわからないけど、きっと中距離ヒッターでそこそこの記録は残していたと思うよ。

二宮: 広島の山本浩二さんも最初は中距離ヒッターでした。その浩二さんも536本のホームランを打っていますし、名球会にも入っているわけですから、飛距離も伸びていたかもしれない。
東尾: 浩二さんは高校生の時はピッチャーやったもん。ピッチャーのくずれもんや(笑)。きっとオレはそういうタイプじゃないだろうね、あそこまでのパワーもなかったし。高校生としては力のある方だったと思うけど、こればっかりはわかんないな。そもそも野手に向いていたかもわからない。特にオレは外野手っていうのが好きじゃない。嫌だよ、あんなヒマそうなところ。試合中も突っ立っている事の方が多いんだから(笑)。

二宮: プロに入ってからも、打者転向の話があったそうですね。
東尾: 西鉄(ライオンズ)に入ってから1年目のキャンプ。そこですでにプロでやっていく自信をなくしていて、夏頃にはコーチに「ピッチャーを辞めさせてください」と言っていたんです。その頃はまだ打つ方に自信がありましたから。ただ、話は聞いてくれたんですけど「ドラフト1位で獲ったんだから、1年間はピッチャーで我慢せえ」と言われた。そんなやり取りがあったのでシーズンが終わるまではと思っていたんですが、秋になって“黒い霧事件”が発覚した。不思議なことに、バッターに向かおうと思った時には、必ずピッチャーになるほうへ話が進んできたんですよ。もうこうなると、ピッチャーとして生きることが運命としかいいようがないんですよね。こちらの事情ではなくて、高校進学やチームの事情で投手を続けてきたから。きっといい方向指示器が、20歳頃まではあったんでしょう。

 ビールが生む解放感

二宮: 東尾さんは、若い頃に弱小チームに所属していて1勝をあげるのにも苦労しました。だからこそ、その時に飲む仕事終わりのビールはうまかったんじゃないですか?
東尾: 九州にいた時、やっと自分の力で接戦を勝てるようになった頃の話です。リリーフピッチャーもろくにいないチーム状況で、ひとりで投げ抜いて勝った時がありました。西鉄の本拠地だった平和台球場は中洲から近い。めったに勝てないのにチャンスをものにしたもんだから、少しでも早く飲みたい。試合が終わったらすぐにシャワーを浴びてそのままお店に直行するんです。お店に着いたらカウンターに座ってビン一本をすぐに空けちゃう。そして、1時間くらい何もせずに、ただホワーっとするんですよ。これが特に気持ちよくてね。ものすごい緊張感の中でプレーしているから、そこでゆっくりと解放されていくんです。

二宮: 夏の福岡なんか、特に暑いですからね。
東尾: 本当に、九州って所は暑くてね。平和台の暗いブルペンで投げた後に、解放されて飲むビールはうまかったね。今でもあの一杯を飲みたいもの。ビールがおいしく飲めたのは当時流行っていたビアガーデンと、ブルペンから解放された時だね。

二宮: 現役時代は、試合後の一杯を楽しみにしていた東尾さんが、今もっともおいしいと感じる瞬間はいつですか?
東尾: 本当は若い頃みたいにビールを大ジョッキ3杯とか4杯とか飲みたい。今でもどこに飲みに行ってもまず一杯目にはビールを飲む。その後に色々なお酒を飲むんだけど、最後も必ずビールを口にする。いきなり焼酎に行く人とかいるけど、僕はビールで始まってビールで必ず終わる、というのが鉄則です。そして、いつも寝る前に冷蔵庫から自分でカンを開けて持っていく。家族が寝ている時にひとりで好きなテレビ番組を見て、ビールを飲む。そこで気持ちがスーッとして、ホッとする。それで一日が終わって行くんです。これが今の、一番の楽しみだね。

 ケンカ投法の真実

二宮: 東尾さんといえば“ケンカ投法”というイメージがあります。251勝をあげた大投手ですが、165個の死球はプロ野球歴代1位の記録です。
東尾: デッドボールに関してはシュートを覚えたての頃にコントロールできずに当たってしまったものもあったけど、半分以上はコントロールがいいからこそ、デッドボールになってしまったんです。大体投げるボールは外の真っすぐとスライダーが70%くらいで、インコースのストレートとシュートは全体の30%くらいなんです。だから基本的にバッターは外角球を打ちたいから踏み込んでくる。外角低目にコントロールする力があったから、打者は踏み込むわけで、その時に内側にボールが入れば当たってしまう。コントロールの悪いピッチャーに対してなら、そこまで踏み込んでこないものなんですよ(苦笑)。

二宮: 東尾さんの球の出所は肩に隠れて見えにくかった。それは独自の方法ですか?
東尾: もちろん30歳くらいまでは正々堂々と投げていました。そこから先、肩を痛めて1年間投げられなかった時に、どうしたら相手のバッターに打たれないようにできるか研究したんです。そこで腕の振りを工夫して球の出所をわかりにくくしたり、デッドボールが怖いというイメージを作り上げてきたんです。一度、イメージを植えつけることに成功すれば相手を抑えることができるんです。特に外国人選手がそうですけど、1回やって逃げてしまったらこちらの負けです。外国人なんてわざと投手に向かって来るじゃないですか。平気で威嚇もしてくるし。それに負けたら終わりです。その威嚇に負けなければ、どのピッチャーでも年間に10勝は上積みできますよ。ガンと当たったとしても、もう一度インコースを必死に攻めていく。あの人を威嚇したらもう一度やられるという印象をつけなきゃ。つくり上げることが一番大事で、そこからの戦いですよ。

二宮: 一種の心理戦ですね。
東尾: 1回当てたくらいでビビッてはいけない。そりゃ勇気はいりますよ。最初は踏み込んできて当たった。それについて、文句を言われる筋合いはない。文句を言ってきたなら、そこから逃げてはいけない。相手がひるむくらいの気持ちを持っていないと。

二宮: その気の強さはプロに入ってからのものですか? 来られたら逃げてはいかんと。
東尾: 親からのDNAかもしれないけど、プロに入ってから弱い所で育ったからかもしれないね。僕が西武で監督をやっていた時にも、ベテランに差し掛かってきた石井丈祐、石井貴、郭泰源、それに渡辺久信。この4人には「オマエら、これができなければすぐに2軍に落ちてしまうぞ」と言っていたけど、やっぱり彼らには出来なかったんですよね。なかなか難しいこととは思いますけど、生き残るにはそれくらいの努力が必要です。

二宮: 晩年の東尾さんの投球には迫力というか、鬼気迫るものがありました。
東尾: 極端に言うと、マウンドに立ったらまず、相手のバッターの眼を見る。キャッチャーミットなんか見ていないんですよ。僕らはバッターと対戦するんだから、やはり相手を見るわけです。それでも、体はキャッチャーの方を向いていて、右腕はアウトコースへ向かって思いっきり振る。こういうことをよくやりましたね。でもそれは、自分が衰えていたから。正面からいって20勝とか最多勝とかいう時はいいけれど、肩と眼で威嚇していたんですね。そういうハッタリも必要なんですよ。土井(正博)さんが近鉄時代に4番を打っていた頃、大分ぶつけましたよ。その後、西武に来たじゃないですか。チームメイトになって色々なことを言われましたけどね(苦笑)。

二宮: その土井さんは後に西武のバッティングコーチとなります。清原(和博)が入団した時に、体を開かず、ぶつかる時には体の外側にしろと。内側は弱くてケガをするとコーチしていました。それは東尾さんとの対決から得た経験則だったんじゃないですか。
東尾: 土井さんも近鉄という弱いチームで戦ってきた経験があるからね。それを清原に伝えようとしたんだと思います。

 清原を監督に!

二宮: 東尾さんは監督としてもリーグ優勝を2回経験されていますが、いわゆる東尾さんの弟子たちもいっぱい監督になっています。西武では伊東勤、渡辺久信と監督を務めました。東尾さんが個人的に伸びそうだと考えているのは?
東尾: 伸びるというか、監督になった時は現役時代とギャップがあったほうがいいんじゃない? たとえば、オレ自身が監督になるイメージというのは現役の頃にはなかったと思うし、似たような事例としては久信が結果を残しているよね。一昨年、彼が日本一になった時は本当にうれしかったなぁ。

二宮: ソフトバンクの秋山(幸二)監督はいかがですか?
東尾: 彼は性格がいいんだけど、ちょっと個性が弱すぎるように感じる。どういう野球をやりたいのか、わかりにくい部分もあるかな。アクがないというか……。彼自身がスター選手だったということもあるけど、バイプレーヤーの使い方に、もう少し特徴を出して欲しいね。

二宮: 辻(発彦、現中日総合コーチ)なんかどうですか?
東尾: あれは面白いと思うね。あいつだったらどういう野球するって打ち出しやすいじゃない。機動力を重視する形になるでしょう。千葉ロッテで結果を出している西村(徳文)監督の野球と似てくるんだろうね。

二宮: 意外なところでは?
東尾: どんな野球をやってくるのかわからない人間が監督になったほうが面白い面はあるよね。そういう意味でも、やはり清原が監督をする姿を見てみたい。本当は、清原監督を一番見たいんだよ。現役時代にあれだけ無茶苦茶に、わがまま放題やってきたヤツが、指導者になったらどうなるのか。あの清原が、急に選手たちの門限に厳しくなったりしたら面白いじゃない(笑)。監督としてどういうキャラクターで行くのか。秋山はちょっと押しが足りないから「お前、もうちょっとこうせい」というのができないけど、その点、清原ならどんな指導を見せてくれるのか。彼が監督になったらお客さんも喜ぶでしょう。やはり、プロの監督もお客さんを呼べるようにならないといけませんからね。


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<東尾修(ひがしお・おさむ)プロフィール>
1950年5月18日、和歌山県出身。箕島高3年時に甲子園初出場、チームをベスト4へ導く。68年に西鉄ライオンズからドラフト1位指名を受け入団。当時、弱小球団だった西鉄で2年目からローテーションの柱となり、75年に23勝(15敗)を挙げ最多勝を獲得。チームは西鉄から太平洋、クラウンと経営母体を変えるがライオンズ一筋を貫く。79年に西武ライオンズとして生まれ変わったチームでもエースとして活躍。82年には念願のパ・リーグ制覇に大きく貢献し、初の日本一にも輝く。その後、88年の現役引退までに6回のリーグ優勝、4回の日本一を達成する常勝軍団の黄金期を支えた。95年から2000年まで西武ライオンズの監督に就任。リーグ制覇2回の実績を残すだけでなく、松坂大輔や松井稼頭央といったメジャーリーガーを育て上げた。現役時代の通算成績は251勝247敗23セーブ、奪三振1684、防御率3.50。MVP2回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回。

★本日の対談で飲んだお酒★[/color]
 
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東京都港区西麻布3−2−15
TEL:03−5775−9638
営業時間:昼 11:30〜15:00(LO14:30)
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(構成:大山暁生)
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