12月1日からスイス・チューリヒで開かれた国際サッカー連盟(FIFA)理事会。2018年と2022年のW杯開催地を決定する重要な場に、僕もW杯招致議員連盟の一員として現地に行ってきました。11月29日に日本を発ち、12月1日のプレゼンテーション、翌2日の投票結果を見届けて、3日に帰国した4泊5日のスケジュールです。結果は皆さんご存知のとおり、日本が招致に乗り出していた2022年大会は中東のカタールでの開催が決まりました。
 実際に現地でFIFA理事の方にお会いすると、日本に対する信頼度は高いことを実感しました。2002年に韓国との共催ながら既にW杯を成功させていますし、クラブW杯の実績もあります。FIFAのレポートでも、さまざまな課題を指摘されてはいましたが、他の開催候補と遜色のない高い評価をいただいていました。投票前日のプレゼンテーションでは政府を代表して鈴木寛文部科学副大臣が登壇。鈴木副大臣も学生時代はサッカーをしており、ベッケンバウアーやプラティニ(いずれも現在FIFA理事)のポスターを部屋に飾っていた話を披露するなど、W杯にかける思いを精一杯アピールしていました。

 ところが、現地で耳にした情報はライバル視していたアメリカではなく、カタールが過半数に近い票を固めているというもの。日本は苦戦を強いられていました。カタールは人口が141万人と愛媛県(143万人)とほぼ同じ規模の国です。W杯開催期間中の気温は40度を超え、元選手の立場から考えても、あまり歓迎できない開催地だと感じていました。空調システムを導入してスタジアムを涼しくするプランも、どこまで現実のものになるかわかりません。サッカー界最大のイベントで最高のプレーをファンにみせることを主眼に置けば、きっと日本の良さを見直してくれるはず。そう信じて、投票当日を迎えました。

 しかし、結果は事前の票読みに沿った形となりました。僕は小さい頃、初めて買ったサッカーボールに入っていたFIFAのロゴを見て、同じボールを世界中の選手たちが蹴っているのだと、夢を膨らませたひとりです。そんな純粋な思いを持ちながら、31歳まで現役を続けてきました。議員になった今も、サッカー少年だった時の気持ちは消えていません。FIFAは、よりよいサッカー界のために力を尽くし、次世代に夢を与えてくれる――。単純すぎるかもしれませんが、そんな思いを抱いていただけに、今回の決定には少し寂しい思いがしました。

 2018年の開催地に決まったロシアも、カタールもW杯は初開催。サッカーのマーケットを拡大する意味では一定の成果があるでしょう。ただ、それなら、なぜオセアニア初開催を売りにしていたオーストラリアは1回目の投票で最下位になってしまったのか。この説明がつきません。しかもロシア、カタールともに評価レポートでは他と比べてリスクが高い結果が出ていました。それでも、あえて開催地に選ばれた理由はどこにあるのか。そこには充実した環境で素晴らしいサッカーを全世界にみせることよりも、別の要素が入りこんでしまったと考えるしかありません。

 今回、短い期間でしたが、招致活動に携わってみて、スポーツの世界でも政治力、外交力が求められることを改めて痛感しました。開催権を手に入れたロシア、カタールは潤沢なオイルマネーを背景に、国が全面的なバックアップ体制を敷いていました。対する日本は法律上、正式に開催国に選ばれるまでは政府保証を行えず、政治の面からは充分なサポートができません。国会では招致議連を結成したとはいえ、実質的には日本サッカー協会が招致にまつわるさまざまな活動をやらなくてはいけない状況でした。

 2022年のカタールでの開催決定により、同じ大陸から続く2大会は立候補できないため、日本が今度、招致を目指すとすれば2034年の大会になります。今から34年後、日本はどんな国になっているでしょうか。予測では人口の減少が進み、超高齢化社会の到来が想定されています。労働者人口の減少による消費の落ち込み、年金などの社会保障システムの機能不全なども指摘されているところです。国力が右肩下がりのままでは、スポーツイベントの誘致もうまくいかないでしょう。

 ある程度の人口減少や高齢化社会は避けられないにしても、日本が魅力的な国であるためには、今、手を打たなければなりません。年金、医療、介護の問題はもちろん、出産や育児をしやすい環境づくり、若者に対する就職や起業支援……。政治が方策を示さなければ、良い方向へは動かないものばかりです。そして、それらはもう待ったなしの状況を迎えています。

 政治が道筋をつけ、国民のみなさんにとって少しでも希望が持てる社会になれば、五輪やW杯招致の機運もより高まるはずです。みなさんのスポーツに対する理解や取り組みも変わってくるでしょう。招致成功には、単なるロビー活動での政治力のみならず、何よりも日常の政治が問われている。政権交代から1年、与党議員の一員として、そのことを強く感じています。

 2010年は方針の迷走や失言もあり、国民のみなさんに政権への不安感や不信感を抱かせてしまうことも多く、申し訳なく思っています。それでも事業仕分けや予算編成を通じ、自民党政権ではできなかった政策も少しずつですが動き始めました。2011年はもう一度、どのような日本にしたいのかという見取り図を示し、「国民の生活が第一」になる政策を着実に実行していきたいと考えています。今年1年、政権に対する厳しい声もたくさんいただきました。それらを真摯に受け止めつつ、新しい年も国会のピッチを走りまわります。引き続き、よろしくお願いします。


友近聡朗(ともちか・としろう):参議院議員
 1975年4月24日、愛媛県出身。南宇和高時代は全国高校サッカー選手権大会で2年時にベスト8入りを果たす。早稲田大学を卒業後、単身ドイツへ。SVGゲッティンゲンなどでプレーし、地域に密着したサッカークラブに感動する。帰国後は愛媛FCの中心選手として活躍し、06年にはJ2昇格を達成した。この年限りで現役を引退。愛称はズーパー(独語でsuperの意)。07年夏の参院選愛媛選挙区に出馬し、初当選を果たした。
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