日本中がザックジャパンの激闘に酔いしれたアジアカップ決勝から2日後の1月31日、イタリアから朗報が届いた。
長友佑都のインテル・ミラノ移籍だ。

1993年にJリーグが開幕してから、カズこと三浦知良を皮切りに、多くの日本人選手が海を渡った。中田英寿がローマでスクデットを手にし、小野伸二がフェイエノールトでUEFAカップを掲げた。中村俊輔もセルティックで地元ファンに愛され、国内リーグMVPにも輝いた。
しかし、彼らが活躍したクラブとインテル・ミラノとではクラブの規模が全く違う。中田や中村が在籍してきたのがその国を代表するビッグクラブならば、長友が移籍したインテルは世界屈指のメガクラブだ。日本が南アフリカW杯で戦ったカメルーンのサミュエル・エトーやオランダのウェズレイ・スナイデルらが名を連ねる。
インテルは昨シーズンまでセリエAを5連覇中。さらに2009−10シーズンでは、ヨーロッパチャンピオンズリーグ(CL)と国内カップ戦も制しており、イタリアサッカー史上初の三冠王者となった。昨年12月に行われたクラブワールドカップでも優勝しており、文字通り世界一のクラブと言える。
長友の移籍を強く後押ししたのは、日本代表監督アルベルト・ザッケローニだ。彼は長友に「現在、イタリアには優れたサイドバックがいない。長友のような選手がいないんだ。爆発力があり、両足を使えて右も左もこなせるような選手がね」と最大級の賛辞を送っている。
この言葉に素早く反応したのがインテルを率いるレオナルドだ。鹿島アントラーズで活躍し、私たちに鮮烈な印象を残した元ブラジル代表は日本人が持つ勤勉さや優れた敏捷性を熟知している。レオナルドはACミラン在籍時にザッケローニ監督の下でプレーしており、彼とは今でも連絡を取り合っている。ザックの高評価と親日家レオナルドの存在が、メガクラブを長友獲得に動かせたことは言うまでもない。
世界有数のエリート集団に加わった長友だが、彼のこれまでのサッカー人生は決して順風満帆ではなかった。
長友が入学した中学のサッカー部は不良のたまり場で、練習もままならなかった。それでもマラソン部とかけもちしながらサッカーを続け、3年の頃にはプレーに専念できるようになった。
高校は名門・東福岡高校へ。部員150人を超えるサッカー部で2年生の時にレギュラーを獲得した。とはいえ、決してスター選手だったわけではない。3年時の高校選手権でも2回戦止まり。Jスカウトに注目されることもなく、彼は明治大学に進学した。
大学入学時の長友のポジションは中盤の底、いわゆるボランチだった。小学校時代にはフォワード、中学ではオフェンシブハーフ。だんだんポジションを下げていき、高校でボランチに回った。
現在の主戦場であるサイドバックでプレーしたのは偶然だった。大学1年の長友は引退した4年生の穴埋めとして、全く経験のない左サイドバックでのプレーを命じられた。
「何をやったらいいのか、全然わからなかった。守備はボランチでやっていたのでよかったのですが、問題は攻撃。いつオーバーラップしたらいいのか、いつ中にパスを入れればいいのか、タイミングがわからなかった」
サイドバック長友が誕生した試合を、本人はこう振り返る。
07年5月、長友は反町康治監督率いるU−22日本代表に選出された。年代別の代表に選ばれたのは、この時が初めてだ。さらにその素質に目をつけたFC東京の特別指定選手に選ばれ、7月にプロデビューを果たす。
翌08年には厳しいポジション争いを勝ち抜き北京オリンピックに出場。同年5月にはA代表デビューも果たしている。その後の活躍は周知のとおりだ。
カズから始まった海外挑戦の歴史は、中田英や小野、中村俊らに引き継がれていった。彼らは高校時代から注目を集める存在であり、いわゆるスター選手だった。
しかし、長友は違う。サイドバックというポジションとの幸運な出会いがなかったら、大学卒業後には企業チームへ進んでいたかもしれない。そんな男が、日本人として初めて世界最高峰のクラブに入団するのだから、人生とはわからないものだ。
粘り強く努力することと、ほんの少しの運。この2つがあれば、自分の力で人生を変えることができる。体のサイズに恵まれず、驚くほどのテクニックがあるわけでもない男が駆け上った世界最高峰の頂。そこでの経験を、彼は日本代表に持ち帰るつもりでいる。
<この原稿は2010年3月22日付『経済界』に掲載されたものです>
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